アルバ・マキシマ





どの花も当たり前のように、毎年同じ花を咲かせます。
そのことを、文字通り、当たり前と思うか、不思議と思うか・・・

私は「当たり前」であることの不思議さをいつも考えてしまいます。
当たり前は、ちっとも当たり前ではありません。
「当たり前」は秘密と謎に満ちています。
「God is in the detail」(神は細部に宿る)
と言ったミース・ファン・デル・ローエの言葉をしみじみと感じる時でもあります。




今年もアルバ・マキシマが咲き始めました。
アルバ・マキシマの「アルバ」とは「白」という意味するラテン語。
マキシマはマックス、つまり「最高の」とか「究極の」という意味になります。
単純に考えれば「最高の白薔薇」という意味になるのでしょうが、どっこい、単純な白ではありません。
思いのほか小さいつぼみには、ほんのりと淡いピンク色が滲んでいます。
初めて見たときは、違う薔薇かと思ったほどでした。
蕾は少しづつふくらんで、やがて時が満ちると、ゆるゆるとほどけるような花を咲かせます。
それは、大切に守られてきた秘密が打ち明けられる時でもあります。
そして薄くピンク色に翳る花は、咲き進むにつれて純白へと変わってゆきます。
アルバ・マキシマと名付けられた所以はこんなところにあるのかもしれません。

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この薔薇が一番美しく見えるのは、日が昇り始める前の蒼い時間。
そして日没とともに庭が暮れなずむころ。
薄闇の中で、ふわりふわりと浮かぶ白い花はまるで夢のように咲きこぼれています。
冷たく透き通った山の空気は、薔薇の香りで満ちています。
この短い一瞬こそ、薔薇たちを最高に美しく見せる瞬間なのです。

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オールドローズなればこその華奢な花首、優しくたおやかな風情。
銀色がかった緑色の葉が、さらにこの花の美しさを引き立てます。







ロサ・グラウカが咲けば、ロサ・グラウカが一番美しいと思い、アルバ・マキシマが咲けば、いやいや、やっぱりこの花が最高と思う、節操のないロザリアンの私、ロサ・グラウカのシンプルで気品のある美しさを至上のものと思う気持ちは変わりませんが、残念なことにグラウカにほとんど香りがありません。
アルバ・マキシマの馥郁とした香りに包まれる幸せは今この季節だけ。
そう思えば、この薔薇への偏愛もむべなるかな。




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今から4年ほど前になるでしょうか。
かつての村田ばら園(現・姫野ばら園)で、最後に買ったのがこのアルバ・マキシマでした。
「寒さに強い薔薇ですから、1200mという標高でも順応すると思いますよ。」
そうおっしゃられた村田さんの言葉を信じて購入したときは、まだほんのちびっ子だったのに、3年目を迎える頃から勢いがつき、あれよあれよと言う間に伸長した結果、今では見上げるほどの高さになりました。
村田さんも、もしかしたらこの薔薇がこんなに大きく育つなんて考えていらっしゃらなかったかもしれませんね。

今年の花は、例年になくピンクが強く出ています。
去年、繁りすぎた枝を思いきってばっさりと落としたことが影響しているのかしら。
それとも、気温の関係?
ほらね、同じ花だけど、同じ花ではないのです(笑)





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アルバ・マキシマ 関連ブログ

       薔薇迷宮/アルバ・マキシマ →   http://folli-2.at.webry.info/201406/article_7.html

         Alba Maxima 究極の白    →   http://folli-2.at.webry.info/201106/article_11.html











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この記事へのコメント

HT
2015年06月12日 17:02
こんにちは。
バラが綺麗に沢山咲いていますね。こうして育てられているとどれもみんな可愛くて美しいでしょうね。私の所に何本かあったのですが、今は1本しかなくなってしまいました。それも中途半端な場所に咲いていて…。先日来業者さんに綺麗にしてもらっていますが、終わったら何とかしてあげたいなって思います。素敵なお庭で羨ましくなってしまいます。
ANNA
2015年06月13日 05:45
aostaさん、おはようございます

アルバマキシマの蕾の色が滲んだような美しさ
咲き進み純白の花へと
移ろう時間の中で、色あいが変わって
その時間ごと、愛おしく思えてくるのです

シルバーグリーンの葉と共に、私もこの花に魅せられています

2015年06月13日 10:35
ステキなバラ~♪ 癒されますね~! 清楚な色がaostaさんにお似合いですゥ~。 植物に限らず、最近「当たり前」が奇跡的な事でもあると思うような事が身の回りにあって、改めていろいろ気づかされる事になりました。 私は普通の3人子供を産みました。生まれるまでは五体満足か?と不安いっぱいでしたが、お蔭様でみんな元気! でも去年長女が夏に切迫早産になり緊急入院した病院には、同じような症状の方が病室にあふれ、驚きました。 長女は逆子でしたが、逆子体操のおかげで?直前に治り普通分娩・・・ でも長女はずっと逆子が治らず帝王切開・・・ そんな事が沢山あり、「普通」とか「当たり前」の方がもしかしたら奇跡的なのかなと思っていました。
2015年06月15日 09:51
バラも植えたいと思うけど、難しいそうね。木植えるだけはそれほどハードル高くないけど、お庭のレイアウトと思うと少し引いてしまします。
でも何か植えて置いたら雑草も少なくなるし、当分は掘り返して植えてを繰り返そうと思っています。
トラノオがだいぶ大きくなってきました。
また、ぼちぼちパパリン拉致の話が出てます。
2015年06月16日 06:28
◇HTさん

おはようございます。
お返事がすっかり遅くなってしまい申し訳ありませんでした。
我が家の庭の薔薇、先日数えてみたら30種類近くありました(^-^; 広い庭なので数があっても多いという感じはしません。手入れはままならないものの、この季節は次々に違う種類の薔薇が咲いて目を楽しませてくれます。
HTさんのお庭にある薔薇の木にはどんな花が咲くのでしょう。植物って意外と根性があるのですよ。薔薇も例外ではありません。長年放っておかれた薔薇でも、ちょっと手をかけてあげるだけで、きれいな花を咲かせます(*^^)v 
2015年06月16日 06:37
◇ANNAさん

お返事をお待たせしてしまって、ごめんなさい。
ANNAさんとは、薔薇の好みが似ているかもしれないと、勝手に思っています(^-^;
私はモダンローズよりオールドローズ。
そのオールドローズの中でもこのアルバマキシマは最高に美しく気品にあふれた薔薇だと思います。ANNAさんも書かれていますが、この薔薇の時間とともに移ろう色調と、馥郁たる香りは、言葉では言い尽くせない魅力ですね。そして葉っぱの色!ここにも言及してくださり、嬉しいです。
もしこの薔薇の葉っぱが光沢のある鮮やかな緑色だったとしたら、全く別物になってしまうでしょう。この葉色だからこその類まれな美しさなのだと思います。
2015年06月16日 06:49
◇mintさん

おはようございます。
お待たせしてすみません。やっとお返事を書かせていただきます。

>「普通」とか「当たり前」の方がもしかしたら奇跡的なのかなと思っていました。

本当に本当に、おっしゃる通りだと私も思います。
私たち人間の知恵や力の及ばないところで繰り返される生命の営みは、当たり前であればあるほど奇跡的なバランスの上で実現しているのだと思わずにはいられません。
普通であることはなんと有り難いことでしょう。
昔の人が「ありがたい」という言葉に「有り難い」という字を当てたのも、深い感謝の意味があってのことなのだと思わずにはいられません。世界はすべて有り難い絶妙なバランスの上に成り立っているという事実が、今の時代忘れられているような気がします。人間はなんでもできる、って思っている。怖いです。どんな先端技術を駆使したところで、人間の力でこの薔薇と同じものを作り出すことはできないんですもの。遺伝子操作も原子力も人間の分を超えた領域だと私は思っています。この有り難い世界が私たちの子供たちのためにも、ずっとずっと守られていてほしいと願わずにはいられません。
2015年06月16日 07:03
◇さえさん

おはようございます。
今日からまたお天気が崩れるみたいですね。
庭の薔薇たちが雨傷みするのでは、と案じています。

薔薇は特別難しいものではないと思っています。
要はその土地に合う薔薇を選ぶこと。これさえ間違えなければ、薔薇は自分で大きくなってくれますよ。さえさんのお庭に合う薔薇を私が選ぶとすれば、やはり、ルゴサ系の薔薇になるかしら。うちの庭もルゴサ系が多いんですよ。
ルゴサの親は日本のハマナス。自生のハマナスは一重のものが多いですが、ルゴサになるとダブルのものも多く、花も大きいので見応えがあります。棘がきついので、敬遠されがちですが、寒さにも病害虫にも強い優等生です。そして何といっても香りが素晴らしいの!
今様は四季咲きの薔薇が好まれていますが、四季咲きは施肥が大変。そこへいくと春に花をつけるだけのルゴサをはじめとするオールドローズ系はあまり肥料を必要としないので手間いらずです。秋には大きくて真っ赤なローズヒップが付きますから、お酒やジャムにもなります。まさにさえさん向き(*^^)v

トラノオ、元気なんですね。安心しました。
パパリン拉致、よろしくお願いいたします(*^^)v
2015年06月16日 23:48
「マキシマ」というラテン語を聞くと、「メア・クルパ、メア・クルパ、メア・マキシマ・クルパ(Mea culpa, mea culpa, mea maxima culpa)」を思い浮かべてしまいました。これを日本でも言うのか気になっていて、aostaさんなら教えてくださるのではないかと思っていたのです。ミサで信者の人たちが片手で胸を叩きながら言うのだそうですが、今はフランス語訳でやるのでしまりがない、と友人が言っていました。私も、このラテン語のフレーズはとても美しいと感じます。

「メアクルパ(フランス人は「メアキュルパ」と発音しますが)」は、フランス人なら誰でも知っているラテン語で、ニュースなどでも過ちを自ら認めた人についてなどで使われています。エディット・ピアフの歌にも「Mea Culpa」という題名のがあって、7つの大罪を犯したと歌っているのですが、邦題は「夜の恋人」などという飛んでもない訳になっていました。

http://chantefable2.blog.fc2.com/blog-entry-289.html

ということは、日本では全く使われない言葉なのかな…。インターネットで検索してみたら、テレビ朝日のニュースの字幕で「メアクルパ」を「ミラクル」と訳していたという記事がありました。あんまりですよ~! と笑うべきでしょうね。でも、人間の弱さがおこしてしまう「罪」というのは、日本の文化では捉え方が違うのかもしれない…。
2015年06月17日 15:59
◇Otiumさん

コメントありがとうございます。
すみません!
Mea culpa, mea culpa, mea maxima culpa 記憶にないんです( ;∀;)。
ちょっと調べてみましたら御ミサの冒頭で沈黙のうちに祈った後、信徒一同が声をそろえて「私は思い、言葉、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。」と告白するときの言葉なんですね。もちろん、この場合の「罪」は神様に対する罪(sin)であって、guiltとは異なります。片手で胸を叩きながら言うというのは、私の場合、経験がありませんし、見たこともないので、罪の告白において、日本の教会では、言葉のみで動作は伴わないのかもしれませんね。
私がまだ小さかった頃のカトリック教会では、司祭はラテン語でミサを立てていましたが、信徒の応答は日本語だったと思います。
60年代初めの第二バチカン公会議において、ミサはそれぞれ自国の言葉で行われるようになりました。
当初はずいぶん違和感があったかと思われますが、今では当時のことを覚えている人自体、もう少数派になってしまいました(;^ω^) 
意味はよくわからなくとも、独特のリズムと言葉そのものが持つ聖性、力といったものがラテン語にはあったように思います。

昔の文語訳聖書にも、ラテン語に通じる格調の高さがありました。
言葉の勢い、重みなど、後の口語訳とは比べ物になりません。
さらに現在では、カトリック・プロテスタント両教会の一致運動(エキュメニズム)の流れから、共同訳の聖書を使っているところが多くなりましたが、エキュメニズムの是非はともかく、改訳されるたびに、言葉の力や美しさが失われて行くような気がしてなりません。
2015年06月17日 16:08
◇Otiumさん

続きです♪
>邦題は「夜の恋人」などという飛んでもない訳になっていました。

映画でもよく見る現象ですね(笑) 歌にしても映画にしても、また文学作品にしてもタイトルが持つ意味は大きいと思います。文化の違いから、日本語に翻訳しにくい題名があることは事実でしょうが、映画の場合など安易な邦題で集客を狙う配給会社の魂胆が見え見えのものも多く、がっかりすることがあります。

>人間の弱さがおこしてしまう「罪」というのは、日本の文化では捉え方が違うのかもしれない…。

コメントの最初の方でちょと書きましたが、英語の場合、sinとguiltは同じ「罪」でも全く違う罪を意味しますよね。英語に限らず、キリスト教文化圏では意識的に使い分けているのではないかと思います。(フランス語ではどうですか?)
「七つの大罪」にしても、聖書の中に出てくる言葉ですから、そこが認識されなければ、とんでもない訳になってしまってもおかしくないかもしれません。
この場合の「罪」も神に対しての罪になるわけで、文化の違い、とひとことで済ませることは簡単ですが、欧米をはじめとするキリスト教文化において、「罪」には2種類があるということを、少なくとも言葉に関わる人は認識していた方がいいですよね(;^ω^)
2015年06月18日 07:10
>片手で胸を叩きながら言うというのは、私の場合、経験がありませんし、見たこともないので、
⇒ そうでしたか。日本では形式的でも「申し訳ありませんでした」と頭を下げれば許される国なので、メアクルパのお説教をする必要はないだろうとも思っていたのです。

>私がまだ小さかった頃のカトリック教会では、司祭はラテン語でミサを立てていましたが、
⇒ わぁ~、ラテン語でしたか。江戸時代の隠れキリシタンの時代も、ミサはラテン語だったのかもしれないですね…。フランス語よりラテン語で聞く方が美しいと感じます。ラテン語でするミサは稀にしか出会えませんが、誰もいない小さなロマネスク教会を見学したとき、音響効果を試すために、祭壇に立ってラテン語でミサのフレーズを言ってくれる友達がいるのです(不謹慎ですけど~!)。

>昔の文語訳聖書にも、ラテン語に通じる格調の高さがありました。・・・改訳されるたびに、言葉の力や美しさが失われて行くような気がしてなりません。
⇒ 誰にでも分かるようにと考えるのでしょうけれど、私も残念に思いますね。フランスでも宗教離れを解消するために若者受けする音楽などでパフォーマンスをやったりしている例がありますが、私は好きではありません。キリスト教は美しい芸術を生み出した文化として残って欲しいと思っているので。
2015年06月18日 07:34
>英語の場合、sinとguiltは同じ「罪」でも全く違う罪を意味しますよね。英語に限らず、キリスト教文化圏では意識的に使い分けているのではないかと思います。(フランス語ではどうですか?)

フランス語にすると、sinはpéché、guiltはculpabilitéと訳すと、違いが私にも見えます。エディット・ピアフの歌に繰り返し出てくるのもpéché。péchéはキリスト教での罪で、法律上の罪はcrimeで、両者が混同して使われることは皆無です。culpabilitéに「感情」をつけると「罪悪感」で(英語でfeelings of guilt、guilt feelings)、社会的・道徳的に罪を犯したと感じることを示すので、宗教的な感情も入り込む余地があるのではないかと思うのですが、分かりません。

「メアクルパ(私の過ち)」という言葉が気に入ったのは、フランス人たちは何かにつけて「C'est pas ma faute(私の過ちではありません)」と言うからです。メアクルパに当たる部分は、現代フランスでのミサでは「C'est ma faute」だそうで、否定の「pas(英語でnot)」を取っただけなのです。フランス人が、あれだけ頻繁に「私が悪いのではない」と言うのは、信心深かった昔にミサで「私の過ちです」と言わされた伝統なのか、子どものときに行かされたカテシスムで言わされた反動からなのか?… でも、カテシスムで唱えさせられるとは思えない。英語圏ではそれほど「It's not my fault」とは言わないように感じるので、フランス人のメンタリティーから来ているのでしょうね。
2015年06月18日 07:38
フランス語のアクセント記号を入れて書いたら文字化けしてしまって申し訳ないです。

続きです。

「罪」という概念を日本語では使い分ける単語がないのですが、そこから派生する「許す」ということも、フランス語では「神が罪を赦す」という絶対的なものなのか、単に「許す」のかは単語で区別できます。今年1月におきたパリのテロ事件では、殺害された側が断腸の思いでキリスト教的に「全ては赦されている」と書いたのに、日本の報道では「何をしても良いのだ」と取れる翻訳にしていたことが話題になっていました。

http://synodos.jp/international/12340
http://blogos.com/article/103494
Kayoko
2015年06月18日 09:00
日が昇る前の蒼い時間、あるいは日没とともにお庭が暮れなずむ頃が、アルバマキシマの一番美しく見える時間....
お茶室の薄い暗がりに、青みを帯びてほの白く浮かぶ足袋を思い浮かべました。
花は毎年咲くけれど、去年と同じではない。
それは公園の木々を見ていてもそう感じます。
森の住人
2015年06月18日 09:17
不思議を不思議と感じなくなることを世間では「大人になる」というようですね。八ヶ岳が居心地がいいのはそういう「大人」が少ないからでしょうか。
2015年06月19日 11:55
◇Otiumさん

>江戸時代の隠れキリシタンの時代も
 ミサはラテン語だったのかもしれないですね…。

あの時代はラテン語以外のミサは考えられなかったはずです。極東の国であっても当然ラテン語だったことでしょう。
信者の間で密かに伝えられて来た祈祷文(オラショ)も、長い年月を経て変形し意味不明になってしまいましたが、元々はラテン語であったようです。
また、祈りの言葉と同様に、歌い継がれてきた聖歌のなかには、本家のポルトガルやスペインではとっくの昔に失われているものも多く、禁教下の日本で生き延びていたという事実もあります。ちょっと長いですが、皆川達夫氏による詳しい研究もあります。→http://www.yk.rim.or.jp/~guessac/orasho.html

私の子供の頃、神父様が歌うような独特のイントネーションのラテン語でミサを立てていたことも懐かしい思い出です。
イントネーションに関しては、現在の日本語のミサの場合も同じですが、やはりラテン語の美しさとは違いますね。
あのころ、ラテン語の意味を理解していた信者は少ないと思いますが、意味はわからないまでも、いえ、わからないが故に感じる神聖さがありました。
香炉から立ち昇る香り、蝋燭の匂い、鈴の響きなど、プロテスタント教会での、牧師説教による頭での理解とは異なる、五感で感じるミサとラテン語の響きには、それ自体に大きな意味があったのではないでしょうか。
2015年06月19日 14:32
◇Otiumさん

>誰にでも分かるようにと考えるのでしょうけれど、私も残念に思いますね。

誰にでも分かるということは、とても大事なことだと思いますが、わかりやすくすることで、大切なものが失われてしまうことも多いと思います。本当に大切なこと、守るべきことは「分かりにくい」ものの中に隠れているのではないかしら。
わかりやすい、一般受けする、という方向は、ときに本質から離れた薄っぺらなものになってしまうような気がします。

「罪」という言葉に対するフランス語の区別をご説明下さり、ありがとうございます。
フランス語は全くわからず、英語も付け焼刃の知識しかありませんので、とても勉強になりました。
キリスト教で言うところの罪と、法律上の罪。
両者が混同して使われることはないというところが、日本人には理解しにくところでなのでしょうね。
そもそもキリスト教的な God の概念自体、日本人にはありませんでした。にも関わらず、「神」という言葉を God に当てたという時点で、誤解が生じたわけで。文化の違いは単なる生活習慣や風土の違いだけでなく、宗教的な違いこそが、もっとも重要なところなのかもしれません。
同じキリスト教文化圏でもカトリックとプロテスタントでは、メンタルな面でかなり違うのでしょうね。

赦し、と、許しの違い、ご指摘いただきありがとうございました。
二つの「罪」があるならば、当然「ゆるし」も2種類になるのは当然ですね。
添付してくださったURLで、読売新聞の誤訳について書かれた文章を読ませていただきました。たった一つの言葉の誤訳から生まれる大きな誤解。これはもしかしたら私たちが考える以上に大きな問題なのでは、と危惧するところです。


2015年06月19日 14:59
◇Kayokoさん

素敵なコメントをいただき、ありがとうございます。
お茶室の薄暗がりの中にほの白く浮かび上がる足袋・・・
清浄で清々しい光景ですね。お茶室という小さな空間が特別な空間である理由のひとつに、明るさの演出もあるかと思います。ほんのりと光が漂う茶室という場所にあるからこそ、一輪の花も、軸も、そしてもちろん茶器も、自ら照り映えるようにその存在を明らかにする。すべてが静まった空間の中に白々と浮かび上がる足袋の美しさ。
足袋ってすごくストイックで、同時に官能的でもあると感じます。
ここで「官能的」などというと誤解されるかもしれませんが、たとえば、芸術とは本来官能的なもの。うまく言えませんが、一般的に使われている「官能」とは別の次元の情緒的な揺らぎとでも言ったらいいのかしら。
ちょっと本題から外れたお返事でごめんなさい。
2015年06月19日 15:01
◇森の住人さま

コメントをいただき、とても嬉しいです。

>不思議を不思議と感じなくなることを世間では「大人になる」というようですね。

おお!なんと明快な言葉!(^^)! 私も本当にそう思います。
世界は不思議でいっぱいなのに、すべてわかったような誤解をしている「大人」たち。なんだかつまらない。かつて子供だったことを忘れずにいられる人は、幸せだと思います。

え~と・・・・何の本だったか、どこか違う星の住人のお話なのですが、その星の人たちは成熟した大人として生まれ、年を取るたびに若くなり、最後には子供(赤ん坊)になる。
つまり、幼い子供や赤ん坊こそが完成された本来の姿なのだ、というお話があったことを思い出しましたよ。
2015年06月20日 06:54
>あの時代はラテン語以外のミサは考えられなかったはずです。

なるほど…。宣教師が外国に行くとその国の言葉を習得することを大事にすると思っていたので、日本で布教するときも日本語でしていたのではないかという先入観を持っていたのです。東京で勤めていたフランス企業にフランス大貴族の息子さんが入ってきたのですが、日本に来てから半年というのに日本語がペラペラ。しかも外国人がいい加減に習得する日本語ではなくて、日本人もこう話して欲しいという正統派の日本語。どこで日本語を勉強したのかと聞いたら、東京にある聖職者養成学校で勉強したと言うので、そんなところがあるとは知らなかったと感心したのでした。

リンクをくださったオラショのお話しは感動的でした。1975年でさえも閉鎖的な空気が残っていたのですね…。グロリオザを「ぐるりよざ」と言ったとは!

「O gloriosa Domina」を聞いてみました:
https://youtu.be/y4szcm4IOfA

現代に残っているバージョンの歌詞かも知れませんね。聞いたことがあるように思ったのですが、この感じの曲はみな同じに聞こえてしまうので分からない…。あるいは、懐かしい思いを抱かせて、何度も聞いたことがあるように感じさせるのが特徴なのか...。
2015年06月20日 06:56
>香炉から立ち昇る香り、蝋燭の匂い、鈴の響きなど、プロテスタント教会での、牧師説教による頭での理解とは異なる、五感で感じるミサとラテン語の響き…

キリスト教のミサの演出は素晴らしいと思っていました。参列者も立ったり、座ったり、歌ったりと参加するので。でも、それだけではなくて、カトリックには五感に訴えるというのもありますね。

むせかえるほどの香炉の煙にも魔力があると思います。イタリアでミサを見たときには嗚咽がこみあがってきて、どうしようもなくなったのを思い出します。サン・ピエトロ大聖堂、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院…。サンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂の巨大な香炉には迫力がありました。

イタリアやスペインで意味が分からない言葉でミサを聞くと感動するのかという気もするのですが、それだけではないでしょうね。最近のフランスでは司祭さん不足で、発展途上国から来た司祭を見ることも多くなりました。フランス人が聞いても何を言っているのか全く分からない葬儀ミサまであるのですが、これは下手なフランス語というだけで、感動は全く与えない。やはり、ただラテン語のミサは意味が分からないから神秘的に響いた、というわけではないのでしょうね。

>本当に大切なこと、守るべきことは「分かりにくい」ものの中に隠れているのではないかしら。

情熱を込めて語る人からは、音楽のように普遍的に伝わるものがあると思います。分からない言葉でも、耳を傾けて理解しようとしていると趣旨が伝わってくる…。とはいえ、フランスは完全に「初めに言葉ありき」の国で、しゃべらないと動物と同じに扱われてしまいます。日本は無言を読み取ろうとする文化がある国で、キリスト教が伝わった時代も、ラテン語を聞きながら意味をくみ取っていたのだろうな... と思いをはせらせました。
2015年06月21日 06:08
◇Otuimさん

おはようございます。

>なるほど…。宣教師が外国に行くとその国の言葉を習得することを大事にすると思っていたので

すみません。言葉が足りませんでした。
仰る通りでカトリックの神父様たちの日本語は今もそれは見事です。当時の宣教師たちも、ミサを立てるときはラテン語でも、信徒との日常的な会話は当時も日本語だったはずです。
日本にキリスト教が伝えられたのはご存知のとおり1549年のことでしたが、早くも1603年には長崎で日葡辞書が発行されています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%91%A1%E8%BE%9E%E6%9B%B8
1593年にはすでにその原型となる「羅葡日対訳辞書」も存在していたという話もあり、本当にびっくりです!
そればかりか、日本に初めて印刷機を持ち込んだのも宣教師たちだったようです。
日本語で印刷まで手掛けたという情熱は驚くばかりですね。

私が知っていた神父様もほれぼれするほど見事な字で、悪筆をもって任じる私としては穴があったら入りたいくらい素晴らしい書体でした。
その地に骨を埋める覚悟で、見ず知らずの国に派遣され、新しい言葉を一から学ぶ(それも話すことだけでなく、日本人と同じように、読み、書くことも習得する)というカトリックの基本的な姿勢は今も変わっていないと思います。

リンク先の皆川さんの文章をお読みくだったうえに、「O gloriosa Domina」までお聴きいただいたとは!ありがとうございました。
2015年06月21日 06:21
◇Otiumさん

>参列者も立ったり、座ったり、歌ったりと参加するので。

立つ。座る。ひざまづく。といった身体的な動作は確かに多いですね(笑)
立つという行為はキリストの復活を、座わることは祈り(黙想)を、それぞれ意味するのだと聞いたことがあります。

普通カトリックとプロテツタントというように大きく二つに分けられますが、カトリックがひとつであるのに対し、プロテスタントはさらに数えきれないほど多くの宗派に分かれています(特にアメリカでその傾向が強いように思います)。教会が(宗派が)違えば、礼拝のスタイルも違ってきますが、カトリックの場合は、カトリックであるかぎり
世界中どこに行っても同じ形でミサが守られています。
とはいえ最近では、Otiumさんも書いていらっしゃいましたが、多様化の方向に向かいつつあることも事実なんでしょうね。

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