" There " アーシュラ・ル・グィン




詩人長田弘の「本というふしぎ」の中で出会ったアーシュラ・ル・グィンの詩。

本文に訳者の名前は見当たらないところからすると、長田氏自ら訳されものかしら。
「闇の左手」でヒューゴー賞とネビュラ賞をダブル受賞し、「ゲド戦記」で知られる「SF界の女王」ル・グィン。
彼女のこの小さな詩を読んでいると、なぜかとても懐かしい想いに捕らわれます。
「世界への郷愁」ともいうべき普遍的な懐かしさが、胸に染みてくるのです。
失われては再生を繰り返す記憶、そして自然。
この小さな世界に注がれる眼差しこそが、あの壮大な物語を生み出す最初のひとしずくとなったのでしょうか。



詩人ル・グインについて長田氏はこう書いています。

「ひとにとってかけがえのない大切なものの記憶を刻して、みずからのぞんで
あくまでも小さな詩人でありつづけてきた詩人といっていいかもしれません。」








 
                 "There"   アーシュラ・ル・グィン
 


         男は、楡の木を、ユーカリの木を、
         ちいさな糸杉の木を植えた。そして、
         水を遣った。夏の長い夕暮れに。
         だから、むかし、この乾いた土地では、
         たそがれとは、水の音のことだった。
         いまでも明るいピンク色の響きを、なり響かせるトランペットのように、
         アマリリスが顔を突きだしている。

         そこらじゅうにはびこっている
         自生のカラスムギの間から。
         そう、木を植えた男は、もういない。


         木々は、夜のとばりが下りるのを
         じっと、そこで待っている。
         そこに育ち、そこに朽ちてゆく
         誰が植えたのでもない、松の木。
         八月の丘を真っ白にしてゆく、
         誰が撒いたのでもない、穀物のみのり。
         廃墟のままそこにのこされた一軒家。
         そこに見えるものは、そこにないものの外見なのだ。
         答のないことが、そこでは答えだ。
         そこでは歳月は、数えられずに過ぎる。
         木々の葉のあいだから、
         夕暮れが水のようにみちてくると、
         いつものように、ヴェガが瞬きはじめる。
         楡の木の一番高いところに。
         野生の白いポピーのように。


         苦痛の国にあって、そこだけ、
         ほんとうに、心みたされるものがある。
         (白い星、白い花、
         古い給水塔から、渇いた土地の
         木々の根におくられてゆく水)
         穏やかさのちいさな滴り。








画像

                        アルブレヒト・デューラー 「草の茂み」(1503年)





目を閉じてこの世界の果ての光景を思い浮かべてみましょう。
人影のない大地は渇き、どこまでも平坦に広がっています。
木を植えた男はすでに亡く、はたしてそれからどのくらいの時が流れたのか、知る術とてありません。
あるのは廃墟となった一軒家。そして古錆びた給水塔。
その給水塔にしてみたところで、果たして実在しているのでしょうか。
仮にそれが幻影だとしても、「給水塔」と言う言葉に付与された静謐な慰めは、
大地を潤し、渇いた私の喉をも潤してゆきます。
その透き通った冷たさまでも感じ取ることができるほどに。

繰り返される営みは、短い断線の連続。
断線された記憶を一つに繋げてゆくのは、過去という時間が育んだ木々、穀物、名もしれぬ白い花。
ここでは星だけに名前が与えられています。
そしてこの「白いポピーのようなヴェガ(織女星)」だけが、いつもと変わらず空で瞬き、
世界は彼女の眼差しの下で、静かに安らいでいます。

音もなく木々の根に送られてゆく水の滴りは、ささやかで愛おしい命の滴り。
しかし、このいのちの、なんとはかないことでしょう。
男は過ぎゆき、いずれ私たちも、過ぎゆきます。





       >むかし、この乾いた土地では、
       >たそがれとは、水の音のことだった。


       >古い給水塔から、渇いた土地の
       >木々の根におくられてゆく水
       >穏やかさのちいさな滴り


この物語の中で、給水塔はヴェガとともにひとつの母性なのではないかしら。






      >そこに見えるものは、そこにないものの外見なのだ。
      >答のないことが、そこでは答えだ。
      >そこでは歳月は、数えられずに過ぎる。
      >そこに答のないことが、そこでは答えだ。


物語の始まり。あるいは物語の終わり。
薄紫色に煙る黄昏の一瞬は、過去につながり、未来へとつながってゆく一瞬でもあるのです。
そこは思考という徒労から解き放たれている世界。
もしかしたら、そこ " There " は世界で一番平和な場所なのかもしれません。










     

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この記事へのコメント

ぶんな
2014年11月06日 14:25
すこし郊外に出ると、廃屋、廃墟、休耕田を目にします。さらに足を延ばせば、廃校もあります。廃屋に立ち上る煙を懐かしむのも、廃屋にかつての人の影を見出すのも、廃校の校舎校庭に子どもたちの賑やかな声を蘇らせるのも何かを生かすという感じもしますが、これらの風景をそのまま受け入れて、そこにある存在をそのまま受け留める、そんな詩が書いてみたくなりました。今は忙しくて、といっているうちに書かないで終わりそうでもありますが、いつか書ければと、aostaさんご紹介の詩を拝読しながら思いました。
HT
2014年11月06日 17:57
こんにちは。
少し違う感じはしますが、廃屋沢山あります。写真撮りに行っていて廃屋を見るとやるせない気持ちになります。まだ子供たちがわいわい言っていただろう頃のものがそのまま残っていてます。蔵もそのままで、あの中はどうなっているのでしょうかね。私の隣組にも廃屋(私の両親の家も含めて)廃屋があります。子供たち(幼友達ですが)全く帰ってきません。少しずつ崩れ落ちて行っています。たまらない気持ちです。
カタナンケ
2014年11月06日 22:07
年寄りばかりになっていく 地方を再生、、と
いわれていますが 働く場がないと 過疎化はますます
すすんでいき狭い都市ばかりが スラム状態に
立て込んでくることでしょう、、
~白いポピーのような ベガ~は
モウ我が家の夜空には 確認できません、、

古い給水塔は、、 あれは どこにいったときでしょう、、
廃墟のような給水塔が 草ぼうぼうのなかに 立っていた、、
たしか 横浜のなかの 風景なのよね、、
それとも、、夢、、だったのかしら、、ふしぎな 光景~
2014年11月07日 05:40
◇ぶんなさん

コメントありがとうございます。

>これらの風景をそのまま受け入れて、そこにある存在をそのまま受け留める

この感覚、好きです。打ち捨てられ風雨にさらされて朽ちてゆく建物に、私は「流れていった時間」そのものを実感します。そこにあったであろう過去にじっと思いを馳せ、見えないものを見ようと目を瞠るとき、心は寂寥のうちにありながら不思議に鎮まってゆきます。ぶんなさんがこうした「失われた物語」をどんな言葉で紡ぎだされるのか楽しみにしています(^^♪
2014年11月07日 05:50
◇HTさん

HTさんのお写真の中でも、廃屋を写したものに興味を持って拝見しています。
建物だけでなく、家の周り、庭が写りこんでいるものは、いつもしげしげと見入ってしまいます。縁先に転がったままの農具や靴、子供の自転車など、かつてそこにあった生活がそのまま打ち捨てられているような気がして、HTさんと同じように何とも言えない気持ちで胸がいっぱいになります。でも同時に確実に流れ去った時間は、そうした生活の体温や澱のようなものを浄化して純粋な記憶だけがのこされている。それも見る側のいわば「擬似記憶」とも言うべき形で。やはり私たちは廃屋に「見たいものを見る」のでしょう。
2014年11月07日 06:02
◇カタナンケさん

おはようございます。
最近都市でも田舎でも空き家の問題がクローズアップされていますね。
空き家が廃屋になってしまう前に、有効活用する必要は確かにあると思います。

野生の白いポピーのようなヴェガ

この表現には優雅で優しいヴェガをイメージします。
先日真夜中に東京から帰ってきました。車を降りると、夜の庭は星明り、月明かりに照らされて青い影を落としていました。空には、どれがヴェガかにわかにはわからないほど満天の星。星が見えない夜空は寂しいですね。

古い給水塔・・・・
夢であったとしても、カタナンケサンの夢を見てみたい!
横浜のどこかで「草ぼうぼうのなかに廃墟のような給水塔が立っていた」光景!
う~む。都市伝説?
カタナンケ
2014年11月07日 10:02
↑ そっか、、都市伝説ということばが あったよね、、
でも あれはたしかに どこかの会社の
テニスコートに行った時に 駅から結構歩いて 通りかかった所にあった
さびた 給水塔の風景だったわ~
もうとっくに 取り壊されているのでしょう~
2014年11月07日 16:52
◇カタナンケさん

場所を思い出されたのですね!
でもどこにあったのか思い出せない、というシュチュエーションも謎めいて魅力的だと思います!(^^)!
まだそのまま残っていたら素敵だわ。
2014年11月07日 19:59
aostaさん、こんばんは。
気持玉有難うございます。
日々思いつくことを気ままに綴っています。
またお時間あればお立ち寄りください。
2014年11月07日 23:26
◇zencyan さま

ご丁寧なご挨拶、ありがとうございます。
私も好き勝手なことを気儘に書いております。
よろしくお願いいたします。
punka
2015年03月07日 20:27
デューラーは、版画のイメージが強かったのですが、こんな繊細な植物の絵ものこしているのですね。ありふれた雑草を描いているのに、緑色の微妙な使い分けなど、非常に魅力的だと思いました。ブログ、これからゆっくり読ませていただきますね。絵や音楽のお話が多くて、楽しいです。
2015年03月08日 15:17
◇punkaさん

ようこそお越しくださいました。
こちらでもお話ができておても嬉しいです(^O^)/

私もデューラーは木版画かエッチング、といったイメージがありましたので、この油彩の小品を見つけたときは、意外でした。でも、こうした路傍の植物へ向けられたデューラーの視線は真摯であると同時に、対象への愛情のようなものが感じられて、お気に入りの一枚になりました。ひとつひとつの植物を特定できる写実的な筆致はまさにデューラーそのものですね。空の高みを見あげるだけでなく、足元で見過ごされている世界にも、こんなに繊細で美しい世界があったのですね。
ANNA
2015年06月21日 07:29
aostaさん、おはようございます。

詩人の長田弘さんがお亡くなりになりましたね。
心に浮かんでは消えていく様々な思い。
あれこれと言葉を探してみるけれど、自分では気持ちにふさわしい言葉が見つけられず
思いは心をさまよい続ける

そんな言葉になることを待ち続けている思いに、形をあたえ、居場所を与えてくださった
のが、長田弘さんの詩でした。
詩「もう一度ゆきたい場所」の
かなわないと知っている。けれども、もう一度ゆきたい場所は、もう二度とゆくことのできない場所だ。
この感じ。年を重ねるほど、せつないぐらいに、心に迫ってくるフレーズなのです。

先日出掛けた書店の一角に、長田弘さんの追悼コーナーがしつらえてありました。
改めて、私に心に響くたくさんの言葉、詩を届けてくださった長田さんが亡くなられたのだ
なと思いました。心に穴が空いてしまったよう。
長田さんが遺してくださった詩を心の支えに、私はこれからも歩き続けるのでしょう。
2015年06月22日 16:59
◇ANNAさん

長田さん、お亡くなりになられたのですか?!
全く知りませんでした。ANNAさんから教えていただかなければ、この先まだ当分知らなかったかもしれません。

もう一度行きたい場所は、もう二度とゆくことのできない場所。

本当にこの言葉が切ないほど胸に染みてくるのは、やっぱり年齢と関係があるのでしょうね。。今、私の前にある時間より、振り返った向こうにある時間のほうがはるかに長くなり、長くなった分、愛おしい人も、愛おしい時間も「あの場所」に留まったまま。投げた綱を手繰り寄せるように、もう一度あの時のあの場所を手繰り寄せることができたら・・・・
どんなに思ってみても叶わぬことだから、思いは一層熱く募ります。
それでも、あの時と今は確かに繋がっている・・・・
そのことだけは確かですよね。長田さんが教えて下さった言葉とまなざしを手掛かりに、今とあの時を重ねていけば、いつかどこかでひとつにつながる時があるかもしれない!ひたすら念じているaostaなのです(^^ゞ

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