弁慶草



百日草に鳳仙花、松葉ボタンに弁慶草。

夏の日差しに白く焼けた祖母の庭で咲いていた花たちが懐かしい。
毎朝、朝顔の花を数えるのが日課だった夏の日。
緑濃く広がったへちまの木陰で、みずみずしいへちま水がガラス瓶いっぱいに光っていた。
へちま水は十五夜のころのものが一番なのだと教えてくれたのは祖父だった。

花びらをつぶしては爪を染めて遊んだ鳳仙花。
優しい鳳仙花の赤は小さな子供の爪を西瓜の色に彩った。
爪紅(つまくれない)が、鳳仙花の別名と知ったのはずいぶん大きくなってからのこと。
そのころの私はもうマニキュアという言葉を覚えていた。



弁慶草はふわふわと小さな花をつけて、庭の片隅にあった。
普段は忘れているような、この地味な花も、遠い昔の記憶に残っている。
年をとるたびに、遠い記憶が近くなる。


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あれは何歳ころのことだったのだろう。
沸騰した湯玉が私の手に飛んで、小さな火傷になった。
それは熱を持ってひりひりと痛んだ。
祖母は庭先の井戸水で、根気よく私の手を冷やしてくれたあと、ついと立ち上がって弁慶草の葉をむしってくると
その葉を火であぶり、魔法のように薄く葉の表面を剥いだ。
半透明でたよりないほど薄いそれを、祖母はすばやく火傷した私の手の甲に張り付けた。
思いがけないほどひんやりとしたその薄皮は、手の上でつるんと透明になって、
まるでもう一枚の皮膚のようにぴたりとなじんだ。


祖母は何回も弁慶草の葉を取り変えながら、まだ涙目の私に、いつものお決まりの昔話をしてくれた。
強く照りつけていた夏の日差しと、あんずの樹の梢で鳴いていた蝉の声。
私はいつの間にか、痛みを忘れていた。
まだそんな年でもなかったろうに、皺深かった祖母の手を懐かしく思い出す。


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思い立って弁慶草を庭に植えてみたが、昔の記憶の中の花とは少し違う。
あのころの弁慶草は、花も葉も、もっとぽってりと野暮ったかった。
お洒落に品種改良された弁慶草の葉も、火傷に効くのだろうか。
あのすりガラスのように半透明の薄皮と、ひいやりと肌にあたる優しい感触を、
今の子供たちは知っているのだろうか。






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この記事へのコメント

しっぽ
2014年09月16日 17:48
「人生に幸せといえる時間が二年あったら、その人の一生は幸せといえるのよ。」と、ある時年若い友人が教えてくれました。小さい頃の暖かい思い出はまさに、それだろうとおもいます。お祖父様お祖母さまの慈しみの思い出は宝物ですね。
昔の人は生きる知恵も沢山身についていたし、今は火傷はアロエです!

昔の記憶…往古茫々なり(ゝω∂)
カタナンケ
2014年09月16日 18:18
遠い日の記憶は かそけき線香花火のようなり、、
はかなげでいて しっかり記憶の底にのこり
いまも パチパチはじけています~
夏の花は 思い出のなかで
ひまわり
キョウチクトウ
オシロイバナ
赤いカンナ
わたしは おしろいばなで 赤い汁をつくりましたよ~

やけどにはアロエだった、、
弁慶そうでも いいのね~
2014年09月16日 20:18
◇しっぽさん

>「人生に幸せといえる時間が二年あったら、その人の一生は幸せといえるのよ。」

2年では足りないようなきがする私は欲張りなのでしょうか(^^ゞ
祖父母との思い出は、そのまま庭の記憶につながります。
今はもう失われてしまったその庭の、どこに何があったか、いまでもはっきり覚えています。まだ私が小学生の低学年までの思い出です。
蝉が鳴いていた杏の樹は、その昔母がアンズを採ろうと登って、落っこちた樹だと良く聞かされました。まだ小さかった私には母にも子どもの時代があったなんて、夢のような話でした。どんなに想像力を働かせても、樹から落っこちて伸びている幼い母をイメージすることができませんでした。
2014年09月16日 20:32
◇カタナンケさん

かそけく、儚い遠い日の記憶・・・・
時には往古茫々と、また時には線香花火のように鮮明に。記憶というものは不思議なものですね。年をとるたびに、遠い記憶が近くなるような気がするのはなぜかしら。

赤いカンナは夏の定番でしたね。 ヒマワリも、グラジオラスも咲いていたはずなのに、なぜかカンナの記憶が鮮明です。
おしろい花、私は種をつぶして白い粉をそのまんま、白粉に見立てて遊びました。
おしろい花で赤い水、ツユクサで青い水。 朝顔は紙に挟んで瓶の底でとんとん叩いては、紙に朝顔の花の形に色を写すことに夢中だった時もありましたっけ。

火傷にはアロエ。
そういえば祖母の庭にもアロエの鉢があったことを思い出しました。
弁慶草の記憶は、アロエの記憶より古いような気がします。
HT
2014年09月16日 22:11
こんばんは。
素敵なお話てすねぇ。小さかった頃の事は結構私覚えていて、おんぶされていた頃の事もハッキリと今も記憶に残っています。最近は昔のこう云った記憶を他人に話すこともなくなりました。自分だけの小さな小さな、何と言ったらいいのか上手い言葉が見つかりませんが、そっとして置きたい素敵なものになっています。今は心も体も汚れてしまっていますが、何時までも大切にしていきたい誰も知らない思いでです。
2014年09月16日 23:40
◇HTさん

コメントありがとうございます。
小さかったころ、それも小学校の低学年くらいまでの記憶は、なぜかみなふんわりと暖かく甘い思い出です。何度も同じ場面を思い起こしては、懐かしく優しい気持ちになります。でもその思い出の中の場所はもうどこにもありません。祖父母ももうこの世の人ではありません。私の記憶の中に閉じ込められた、幼いころの幸せな一瞬は、いつも私の心をそっと温めてくれます。
HTさんだけの大切な思い出もまた、柔らかな光を放っているのでしょうね。
2014年09月17日 10:31
特にホウセンカって最近あまり見かけなくなった気がするな~って私も何年も考えていました。 あの種のできた袋を指でそっと触るとパチン!クルッ!って弾けて種が飛んで行くのが面白くてあちこち触って歩いてた記憶があります。(悪戯っ子だったね) 松葉ボタンはいまでもガーデンセンターで売られているけどね~。 ベンケイソウ、私が小さい頃、母のお腹に妹がいて母の足がむくんでたそうなんです、子供だからそんなの分からないけど、でも同居してた父方の祖母が「むくみが取れるって聞いたよ」って言って庭にたまたま咲いてたベンケイソウを茎毎切って来て逆さま部屋に飾っていたのをいつも思い出すんです。 ただ、逆さまにして吊るしてるだけで?ってなんだろう?って子供心に思ったのですが、葉にはそんな効果があったのなら、きっと昔の人の知恵で何らかの意味もあったのでしょうね。 あのピンクの花を見る度に思い出す話・・・そう、子供の頃の記憶っていつまでたっても忘れないですね。
しっぽ
2014年09月17日 15:57
確かに、二年ではちょっと足りないかもしれませんね。でも小さい頃の二年の幸福は永遠に較べられるとも思います。私も母の実家で育ちました。庭の梅の木から落ちたことがあります。枝が折れたんです…我アルカディアに在りし時という言葉がありますね…
ぶんな
2014年09月17日 20:17
aostaさんの小さいちゃんのときの様子が浮かびました。愛情いっぱいのおばあちゃんあちゃんに守られた事、幸いでした。もしわたしに孫が与えられることがあったら、孫にこんな風にしてあげたいですね。その日がくるかどうか分かりませんが…
2014年09月18日 06:37
◇mintさん

おはようございます。
鳳仙花、もしかしたら、古いお家の庭などでひっそり咲いているかもしれないのですがこの辺りではまったく見かけません。
豊かな葉の陰で、隠れるように咲く鳳仙花は地味なんでしょうかね。
勢いよく種がはじけるのが面白くて、私もmintさんと同じように、よく種を飛ばして遊んだものです。
瞬発力を溜めに溜めた一瞬の勢いこそ、鳳仙花の真骨頂ですね(^^♪
たった今、思いついて鳳仙花をネット検索してみまた。現在ホームセンターなどで売られているものはほとんど八重咲で色も華やかなもののようです。八重の鳳仙花・・・ちょっとイメージが違いました( ;∀;)

弁慶草はいろいろな薬効のある漢方植物だということも発見しました。中国では、全草を乾燥させたものを解熱や解毒薬として服用するようです。
お祖母さまが部屋の中につるしていたのは、飾るためではなく乾燥させてお薬にしようということだったのかもしれません。生命力の強い弁慶草は安産の縁起ものとしでもあるようです。

>あのピンクの花を見る度に思い出す話・・・

お祖母様の思いが伝わってくるようなお話ですね。
2014年09月18日 06:58
◇しっぽさん

おはようございます。

黄金の子供時代・・・・
あれは確かにアルカディアであったやもしれません。

確か渋澤孝輔の詩集「われアルカディアにもあり」があったはず、といま書棚から出してきました。背表紙の色がすっかり変色しています。(あらあら、部分的に紙魚も付いている!)しっぽさんのおかげで何年ぶりか(何十年ぶりか?)で開いてみましたよ。後付をみたら1975年とあります。
あのころも、確かに私のアルカディア時代でありました。
そう考えてみると私の「幸福な時間」は決して2年どころではなさそうです。
まだ無垢だった子供時代の「黄金の時」を過ぎ、手探りで「言葉の世界」の探検に夢中ったあの頃もまた、しっぽさんのお友達がいうところの「幸せといえる時間」とはちょっと違うかもしれませんが、今の私を形作ってくれた大切な時間であったと思います。時間を遡行することはできないけれど、確かにつながっていることを思えば、やはり私は幸せなのでしょうね(^-^;
2014年09月18日 07:14
◇ぶんなさん

おはようございます。
祖母と同居してはいなかったのですが、電車で一駅の町にあった母の実家に連れて行ってもらったものです。まだ結婚前の叔父や叔母が一緒に遊んでくれるのがうれしくて、毎週のように「お泊り」をねだりました。広い庭や土蔵で一人遊びしたことも懐かしい思い出です。広い縁側のそばには祖父の趣味の万年青や岩ひばの鉢がたくさん並んでいたこと、庭の端っこの小さな流れで蟹を採って遊んだこと・・・・
祖父母や叔父叔母、そしてあの庭が、私の根っこを育ててくれたのだとおもいます。
特に、読書好き、音楽好きだった叔父が後の私に与えた影響は大きかったと思います。
カタナンケ
2014年09月18日 09:53
しっぽさんも かかれている 「アルカディア、、」
シンガポールにいたころ 「アルカディア」という 集合住宅地があり
すてきなひびきに 意味を調べた事を 懐かしく思い出しました~
今見ると「古代ギリシャの 理想郷」とありますが、、
わたしには 子供の頃の神戸といっしょに
シンガポールもまさに アルカディアだったかも、、
2014年09月18日 12:25
◇カタナンケさん

子供の頃の神戸・・・・
カタナンケさんのアルカディアは現在の神戸ではないんですね。
失われた場所の思い出こそがアルカディアなのかもしれないと思いました。
シンガポールは美しいことで有名ですね。
今P氏の姪が家族で暮らしているので、時々写真を眺めては楽しんでいます。
カタナンケさんは観光ではなくシンガポールに住んでいらしたんですか?!
素敵\(^o^)/

そういえば昔京王プラザにアンブローシアというレストランがありましたっけ。
アルカディアと同じくギリシャ語で、不死の効果がある「神々の食べ物」という意味だそうです。
mint
2014年09月18日 22:04
ベンケイソウを逆さまに吊るしているのはドライにするためではないんですよ。切り取られただけで逆さに吊るされている何本ものピンクの花を付けたベンケイソウはそんな状態であってもどんどん頭を上にあげて来てくるりと巻き上がって来てたのも覚えています。おまじない程度なんだとは思うんですが、昔の人って何かの効力を信じていたのは強いですね。 
2014年09月19日 07:25
◇mintさん

おはようございます。
再コメントありがとうございました。

>逆さまに吊るしているのはドライにするためではないんですよ

そうなんですね!
私はてっきり観想するために吊るしていると早合点してしまって・・・・
多肉植物の弁慶草、挿し木は容易と聞いていますが、切り取られて逆さに吊るされても(こう書くと、なんだか拷問のようですね・(-"-) )頭を持ち上げてくる生命力!!
昔の人がこうした力にあやかりたいと思ったことも、うなずけます。今の時代はなんでも「科学的な説明」がないと納得しませんが、かつては理由など分からないまでも直感的に、事象を受け入れ、それに任せるという伸びやかな心があったのでしょう。
おまじないって、とても素敵なことだと思います。
ANNA
2014年10月01日 22:02
aostaさん、こんばんは。

>百日草に鳳仙花、松葉ボタンに弁慶草…
以前、コメントのお返事で「特別な思い出のあるお花があるんですよ。いつかそれを文にしてみたいと思ってます」とおっしゃっていたaostaさん。
花に寄せる思い出を伺える時を、楽しみにしていた私です。
遠い記憶の中にある花、それにつながる様々な事柄をたぐり寄せては紡いでいく言葉が、いつもながら本当に美しくて!またまたウットリしてしまいました 。

スミレ、カタクリ、ハゴロモジャスミン…私にも思い出のある花があります。
懐かしいような、せつないような想いとともに心の中に咲き続けている花です。

2014年10月02日 06:34
◇ANNAさん

おはようございます。
スミレ、カタクリ、ハゴロモジャスミン・・・
並べられた花の名前を伺っただけで、ANNAさんの思い出を聞かせていただきたいと思いました。花にまつわる思い出は花の季節が巡ってくるたびに、新たな感慨と郷愁を呼び起こします。
毎年同じ花は咲くけれど、あの時の「あの花」ではない。
同じなのに同じではないことに、なんだか歯がゆいような切なさを覚える時がありませんか?花に限りません。
かつて通ったことのある道、目に焼き付いた風景・・・
同じだけれど、同じではないという焦燥感のようなものを強く感じるときがあります。過ぎていったかけがえのない時間。思い出の中でも特別な輝きの中にある「あの時」と今の私とを遮る時間の無慈悲なこと!
ああ、どこかに、この二つの瞬間がつながっている場所はないのでしょうか。私が帰りたいとおもう場所は、この弁慶草が咲く庭なのです。
でもね、世界に複数の時間軸が存在するという話が本当だとしても、その世界にいる私は、この私とはすでに違う私なんですよね。
先日のコンサートでは、以前ANNAさんから教えていただいた「きつねの窓」を朗読させていただいたんですよ。
縁側に脱ぎ捨てられた長靴、小雨に濡れた庭。遠くからはラジオに興じる子供たちの笑い声。あの窓を超えて行きたい、と私も心から願うのです。

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