私説 いばら姫





腰丈まで伸びた草を かき分けながら
そんな急ぎ足で あなたは       
どこまで行こうというの

ほら 頭上からは 棘だらけの野いばらが
ゆるゆると 細い枝をなびかせ
しなやかに揺れるふりして
あなたのばら色の頬を 打ってゆく

その白き腕(かいな)は
鋭い茅(かや)の葉さきで 
すでに傷だらけだというのに

いばら姫 いばら姫
あなたに相応しいのは
冷たく光る 絹の褥(しとね) 
すべらかな天鵞絨(びろうど)の天蓋

それなのに まるで熱に浮かされたように
そんなにも きららかな眼差しで
そんなにも 頬を火照らせて





画像
バーン・ジョーンズ 連作「いばら姫」1872-1874年頃 油彩・カンヴァス 126×237cm





ああ! あの方がお出でになるのです
私の大切なひと
さればこそ 百年もの間 待ち続けたあの方が 
今しもここにお見えになる!
早駆けの蹄の音に 耳を澄ませながら
じっと待っていることなど
いえ ただ眠ったままでお待ちすることなど
できようはずもありません



恐れながら 姫
百年の眠りのあとの熱きくちづけ
その約束が果されてこその すこやかな目覚め
こればかりは 
いかんともしがたい いにしえからの定め
どうぞ城にお戻りくだされ
そしてもう一度 お眠りください





画像





いばら姫 いばら姫
まどろみながら微笑む 草原の夢

かの人を待ちかねて 走り出る喜びのとき
纏う薄物は寒冷紗
素足のまま 下草を踏んでゆく
胸の高鳴りは早鐘のごとく
輝く瞳は さらにも明るく

さりながら いばら姫
引き戻され 引き戻され 
約束の百年はとうに過ぎ
永遠に醒めることのない 眠りの中
かくして いばら姫
永遠に終わることない 夢の中




腰丈まで伸びた草を かき分けながら
そんな急ぎ足で あなたは
どこまで行こうというの

ほら 頭上からは棘だらけの野いばらが
ゆるゆると 細い枝をなびかせ
しなやかに揺れるふりして
あなたのばら色の頬を 打ってゆく・・・・






by aosta   2012/12/12










この記事へのコメント

カタナンケ
2012年12月13日 21:19
「いばら姫」は 眠れる森の美女の お話でしょうか、、
糸巻き車に 指をさされて 100年の眠りに落ちるという、、
ちゃうかな、、??
挿絵が きれいですね~

子供のときに父からもらった本で
「インゲ」という 高慢ちきな少女がでてくるはなしを
今手に入れたいけど、、なんのはなしだったか、、
泥だらけの道を渡るのに  パンを 地面にしいて(おいて)
その上をわたろうとして、、たしか 底なし沼のようなところに
落ちて行く、、という話(だったような)
ご存知ではないかしら~
すばらしいぺん画(エッチングかな)の挿絵だったのよ~
2012年12月13日 22:00
◇カタナンケさん

こんばんは。コメントありがとうございます。
いばら姫は、眠れる森の美女のお話です♪
もともとは、グリム兄弟やシャルル・ペローの採話による民話ですが、「眠れる森の美女」という題名はディズニーのイメージが強いような気がして、私は昔からの「いばら姫」という名前が好きなんです。本文中の挿絵は、「ねむり姫」「いばら姫」の連作を繰り返し繰り返し描いたヴィクトリア時代の画家バーン・ジョーンズの作品。素晴らしすぎてため息が出てしまいそう。二枚の挿絵は、一見同じ絵のように見えますが、実は違う年代に描かれたもの。よお~く見ると、微妙に違っているのがお判りになるかと思います。

高慢ちきなインゲのお話は多分「パンを踏んだ娘」というアンデルセンの童話だと思います。靴が汚れるのが嫌で、お母さんへのお土産のパンを踏んでぬかるみを渡ろうとした少女が、そのまま沼に沈んでしまうというお話ですよね。もちろんお話はここで終わりではありませんが、もしかしたらカタナンケサンがもう一度本を読まれるかもしれませんから、ここまでにしておきましょう(笑)。アンデルセン童話は、創作童話になり、キリスト教的世界観が強くなりますが、グリムやペローの場合は民間で伝承されてきた昔話ですから、呼び方は同じ「童話」でも雰囲気そのものは、ちょっと違うかもしれませんね。
カタナンケさんがご覧になられたと言う「パンを踏んだ娘」の挿絵、私も見てみたいな!
ねこギター
2012年12月14日 04:06
「いばら姫」は、まず時間が凍結していく結界としてのいばらの森、塔で眠り続ける姫というイメージが美しいですね。
結婚というハッピーエンドやペローのような教訓は、語りの締めとして必要だったかもしれませんが。
王子がやってきて目覚めるというのも、じつはまだ夢であったかもしれない…。
永遠の夢の中に生きるいばら姫。
aostaさんの最後にまた冒頭の文章が小さく聞こえて来る構成が、いいなあ。
まるで映画作品を観ているような、映像とナレーションを想像しながら読みました(^^)。
「天鵞絨」はビロードのことなんですね。
aostaさんの言葉の貯蔵庫は大きいなあ、といつも感嘆してしまいます。
ぶんぶん
2012年12月14日 21:48
こんばんは!
ネットの不具合がここのところたまに起きており、今のうちにと書かせていただきます。
夢物語のような雰囲気の絵画、この1枚目と2枚目、色合いと表情がすこしずつ違っていますが、画家はどのような意図をもってこの同じような?2枚を描いたものかがわかりませんでした。

>その白き腕(かいな)は
鋭い茅(かや)の葉さきで 
すでに傷だらけだというのに

傷つきながら眠っている。全体の詩の中で、このところが、読後、とても印象にのこりました。
夢の中のような、とても美しい絵ですね。
2012年12月14日 22:07
こんばんは。
バーン・ジョーンズのいばら姫、11月の末に見てきたばかりです。
展覧会のパンフレットにもこの絵が、印刷されています。
それから、クリアファイルもこの絵のものを買ってきましたよ。(*^_^*)

一緒に行ったお友達も、皆同じ顔に見えると言っていましたが、私もそう思いました。どの絵の顔も同じ人を描いたのかなと思うほど、似ています。それが不思議な感覚をもたらして、迷いそうでした。
展示された絵の中でも、このいばら姫は素敵でした。本当に素敵な絵でした。
2012年12月15日 06:03
◇ねこギターさん

コメントをありがとうございました。
結界としての「いばらの森」加えて「塔」。私にとっての塔の物語と言えばと「ラプンツエル」と「いばら姫」。この二つのお話は、昔から私を魅了して止みません。塔にまつわる物語では、ペローのも「青髭」も外すことは出来ないと思いますが、好みとしては、断然グリムです。
夢がフロイト的に分析されてしまう前の、夢がまだ無垢の夢でありえた時代。ラファエル前派の画家たちにとって夢は神聖なもので会ったようです。バーン。ジョーンズにとって眠りは死に最も近かく、かつ甘美なものともであり、眠りこそ、彼がが求めてやまなかった聖なる永遠性の象徴であった神聖なる永遠の象徴でもあったと読みました。
永遠の眠りの中で、終わらない夢を見続けるということ・・・
「劇中劇」を見ているうちに、一瞬、どちらが本当の物語なのか判らなくなる時がありませんか?「胡蝶の夢」は荘子だったでしょうか?夢によって浸食されていく現実、そのまた逆もありうるならば、夢によって護られる、という場合もあるわけで。
いばら姫の眠りと夢は、彼女を阻害するものではなく、「いばらの森」とともに彼女の聖性を護るための結界のひとつであったとしたら・・・。
王子の登場で、目覚めと開放がもたらされることを希求しながら、同時に夢に護られることでしか存在し得ないというアンビバレントな関係、とでも言ったらいいのでしょうか。
最終連の小さな工夫、遠いリフレインのように読んでいただければ嬉しいと思っていましたが、まさにそのようにお感じになって下さって、とても嬉しいですヽ(^o^)丿
いばら姫の夢と同じように、この詩も終ることはないのかもしれません(笑)。
2012年12月15日 06:19
◇ぶんぶんさん

おはようございます。
ネットの不具合は、精神的に良くないですよね^^;
早く状態が改善されるよう、遠くから応援することにいたしましょう!

二枚の絵のうち、どうにも後の方の製作年月日がわからず、わからないままに画像だけアップしてしまいました。いばら姫の首の傾けかた、侍女たちの手足の表現など、極わずかな違いしか見つけられない二枚のいばら姫。表情は確かに同じように見えますね。バーン・ジョーンズに限らず、ロセッティの絵など見ても皆同じ女性。彼等が描きたかったものは、特定の女性ではなく、「物語」そのものであったのではないでしょうか。
若しくは反対に、特定の女性のための「物語」を必要とした・・・どちらにしても画家たちにとって最も大切なことは、現実のリアリティーではなかったのではないかと思います。

繰り返し同じ絵を描き続けることで、画家自身、いばら姫と一緒に夢を見たかったのかもしれない・・・バーン・ジョーンズのこれらの連作を見ているとそんな風に思えてきます。
2012年12月15日 06:45
◇沙羅さん

お久しぶりです!!
御無沙汰したままでしたが、お変わりありませんか?
バーン・ジョーンズ展に行かれた由、お元気そうで安心致しました(^^♪
私はと言えば、展覧会があったこと知りませんでした。バーン・ジョーンズの絵が好きで、時々思い返すように眺める事があるのですが、新聞も全国紙は取っていませんし、テレビも滅多に見ないので、展覧会の事は全く知りませんでした^^;
この秋は東京にも何回か出かけましたのに、自家用車で目的地に直行することが多く、ポスターを眼にすることもなかったのでした。う~ん、残念。

>それが不思議な感覚をもたらして、迷いそうでした。

画像をアップするに際して気がついたのですが、この「いばら姫」一点で126×237cmの大きさなんですね。
絵の前にたったなら、完全に絵の中の世界に引き込まれtしまいそう・・・。
同じ表情の何人ものいばら姫に取り囲まれるという、不思議な空間。もしかしたら、それは一つのラビリンス体験ではなかったと思うのですか、いかがでしょう?
私にとっての「いばら姫」は物語自体がすでにひとつの迷宮です。
カタナンケ
2012年12月15日 16:36
バーン ジョーンズもしらなければ この展覧会もしらなかったですが
見に行きたかったです~
残念~
モネーやピカソより こちらのほうが 好き~
装飾的 あるいは デザイン的 あるいは なに派というのか
(具象?)ルソーや マルグリット的、、がすき~
かたなんけ
2012年12月16日 15:00
それにしても、、
わたしは絵付けの生徒さんから「先生はとても博識で 判らないことは
先生に聞けばみんな 教えてもらえる~ 辞典だわ」と
いわれましたが、、(おこがましくも)
私が習っていたときの絵付け教室には もっともっと博識の友がいて
私は「エンサイクロペディア(ブリタニカ)」と 読んでいたけど
aostaさんは なんと お呼びすればいいのかしらん、、
2012年12月16日 23:00
鍵穴からのぞいたような
そんな不思議の世界ですね。

迷宮と言われれば、まさにそうかな・・・・と。

二枚の絵をなんども見比べていると、
ひきこまれてしまいそうになります。
合わせ鏡をのぞいたみたい。
2012年12月17日 05:18
◇カタナンケさん

カタナンケさんは横浜でしたっけ?
東京のお近くに住んでいらしても知らない・・・・そんなものなのですね、ちょっと安心致しました(笑)。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヴィクトリア時代のイギリスはその経済的な繁栄とは裏腹に、精神的には閉塞感の強い社会だったようです。多くの画家たちが、従来のスタイルに捕らわれない画法で、ギリシャ神話や中世の伝説や物語を描いたことと、こうした時代背景とは何らかの因果関係があったのでしょう。「ヴィクトリア朝的」と言えば、欺瞞と虚栄の代名詞のように使われることもあったとか。ラファエル前波の作品自体、抑圧感や閉塞感の中でうまれた夢と言えるのかもしれませんね。幻想的でありながら非常に写実的なラファエル前波の絵には不思議なリアリティーがあります。
2012年12月17日 05:27
◇カタナンケさん

>aostaさんは なんと お呼びすればいいのかしらん

私はただ好奇心が強いと言うだけの知りたがり屋ですよ。陶器も大好きですが、絵付けに関しては何も知りません。カタナンケさんに教えていただくことも多いかと思います。どうぞよろしくお願い致します。

そうそう、カタナンケさんがお好きだと書いてらっしゃるルソーとマグリット、昔のブログに描いています。お時間と興味がおありでしたら読んで見てくださいませ

「アンリ・ルソー カーニバルの夜」
http://follia.at.webry.info/200610/article_7.html

「ルネ・マグリット 記憶の博物館」
http://follia.at.webry.info/200609/article_32.html

2012年12月17日 05:37
◇七海さん

おはようございます。

>鍵穴からのぞいたような

いばら姫の物語が、「閉じられた世界の」の物語であり、囚われの物語であるならば、鍵穴からのぞくこと(!)が、正しい見かたなのかもしれません。

会わせ鏡をみるような二枚の「いばら姫」。
これもまたより幻惑的なイメージで私を誘います。実際の展覧会で、実物大の絵の前に立ったなら、自分もまた絵の中の登場人物の一人であるかのような錯覚に陥ってしまいそうですね。

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