消えがてのうた part 2

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zoom RSS 久保田彰チェンバロ工房にて

<<   作成日時 : 2012/10/05 09:56   >>

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歩けばかなりの勾配と思われるその坂道を、車でゆるゆると下って行くと、緑の畑地が見えてくる。

チェンバロ作家久保田彰さんの工房は、その坂道を下りきった行き止まりにあった。
駐車場には大きなユーカリの樹が一本。
近づく台風の気配の中で銀色の葉裏を風にそよがせていた。



今月20日に予定しているコンサート「ミューズの調べ」の音合わせのために訪れた久保田さんのチェンバロ工房は、予想していた雰囲気とずいぶん違っていた。
繊細で神経質というチェンバロ作家のイメージは、私が頭の中で勝手に作り上げたものだったが、
説明をしながら工房内を案内してくださる久保田さんは予想に反して、穏やかで明るい感じの方だった。

楽器(それもあの繊細なチェンバロ)工房というより、製材所とでも言った方が似合いそうな広々とした空間。
整然と、しかし所狭しと置かれた板材や大小の機械や道具。
場合によっては丸太から直接板を切りだし、時には2メートルは優に超える黒檀をカットするという「荒技」を経てあの繊細優美な楽器が生まれるのだ。

工房の壁にはフランドル絵画とみられる静物画のレプリカが複数飾られている。
単に楽器というだけでなく、芸術的調度品であり、一種のステイタスでもあったチェンバロを、美しく装飾するのはテンペラ画の技法で描かれる、同時代の絵画なのである。




画像




響板に描かれるのは、そうした静物画だけでなく、時にはこんな風景画も・・・・
私の大好きな画家のひとりクロード・ロランの模写だ。
繊細なカリグラフィーで描かれているのはラテン語の格言。
鍵盤周りを中心に帯状に貼られているのは、イスラミックとも感じられる植物をデザインした連続文様。
そして精緻な緊張感とともに張られた弦の下には、空間を浮遊するかの如くにちりばめられた様々な花たち。

すべて手作業で作られた、洗練の極みとも言えるこの楽器は、ピアノに似て、実は非なる楽器である。
現在、私たちが慣れ親しんでいるピアノとは、時代も発音の仕組みも異なる。
ベートーヴェンの時代には、既に過去の楽器となりつつあったチェンバロは貴族や有産階級の没落とともに、時代から取り残され、忘れられていった。
チェンバロが楽器であったと同時に、特権階級のステイタス・シンボルでもあった事を考えれば、
市民階級の台頭によってその居場所を失ったことは想像に難くない。
音楽そのものが演奏される場所も、貴族のサロンから一般市民にも開かれたコンサートホールにと代わり、
それまでの室内楽から、大編成のオーケストラによる演奏が聴衆の耳目を集めるようになった。
同じ金属弦を使ってはいても、その弦をハンマー様のものでたたくことで発音するピアノに対し、
鳥の羽軸でその弦をはじいて発音するチェンバロの響きは繊細で、いわんや音量は、ピアノの比ではない。
時代はオーケストラによる、よりドラマティックで大音量の音楽を求めていた。

チェンバロとともにバロック時代の音楽において花形であったリコーダーやヴィオラ・ダ・ガンバも、
同様の理由によって、リコーダーはフルートに、ヴィオラ・ダ・ガンバはチェロにと、それぞれ取って代わられた。
演奏者と聴く側が互いに立場を変えながら、ともに音楽を楽しんでいた時代は終わり、
両者の間に明確な線が引かれるようになったのも、この頃の事だ。




画像




モダン楽器こそが、楽器として完成されたものであると言う考えには大きな落とし穴があると思う。
楽器に進化論は必ずしも当てはまらない。
現在、古楽器、若しくはピリオド楽器と呼ばれるこれらの楽器は、既に完成されたものであった。
忘れ去られてしまったのは、楽器が不完全だったからではなく、時代が要求するものが変わった結果であった。
時代が変わり、音楽も楽器も変わって行った。
そしてその始まりから、様式の追及に専心してきた西洋音楽が辿りついた先は、無調音楽とも言われる現代音楽。
それについて述べるだけの見識も経験もない私であるが、こうした現代音楽に共感できるのは、
限られた一部の愛好家だけではあるまいか。
うがった意見かもしれないが、ある意味において、音楽が行き先を見失ったとも言える私たちの時代になって、
今まで忘却の彼方へと押しやられていたチェンバロをはじめとするバロック時代の楽器や音楽が復権を果たしたという事実に、私は音楽的必然を感じてしまう。

時代よって忘れ去られ、時代によって再び呼び戻された楽器、そして音楽。
人と人が対面で音楽を共有していた時代、演奏者も、聴く人も、音楽という一つの宇宙の中に取り込まれ、
同じ喜びを体感していた時代の音楽や楽器に、人々が再び魅きつけられる・・・
思えば不思議なことではあるが、これもまた「時代の流れ」なのだろう。





久保田さんの工房には、心地よい手仕事の静寂が満ちていた。
製作スタッフは久保田さんの他に二人。
いつの日か自分のオリジナル楽器を作りたいと熱く語る青年は、白いシャツも清潔な若者だった。
細心の注意で絵筆を動かしていたのは、ひとりの清楚な女性。
聞けば、既にチェンバロ作りすべてを習得した上で、絵が好きだからと絵付けに専念していらっしゃると言う。
どちらも集中力を必要とする精密な作業だが、どの手からも、その仕事を愛おしんで作業していることが伝わってくる。

気がつくと、ユーカリの樹の下には久保田さん心づくしの昼食が用意されていて、
工房のドアの上に掲げられていた宮沢賢治の詩についてお聞きしたかったことも忘れてしまった。

久保田さん、賢治がお好きなのでしょうか?






画像


久保田彰著「チェンバロ 歴史と様式の系譜」 株式会社ショパン

前書きは林望さん 聴き応え、見応えのあるDVDがついています









  過去ブログのチェンバロ関係記事


     ◇「シフォーチの別れ / チェンバロによるアリア集T」 武久源造
                   http://follia.at.webry.info/200802/article_4.html
     ◇「ヴィオラ・ダ・ガンバとオブリガート・チェンバロのためのソナタ」BWV1027-1029  (T)
                   http://follia.at.webry.info/200804/article_1.html
     ◇「ヴィオラ・ダ・ガンバとオブリガート・チェンバロのためのソナタ」BWV1027-1029  (U)
                   http://follia.at.webry.info/200804/article_2.html
     ◇「D・スカルラッティのチェンバロ・ソナタ 」
                   http://follia.at.webry.info/200709/article_1.html     
     ◇「スカルラッティのチェンバロ・ソナタを聴きながら・・・」
                   http://follia.at.webry.info/200703/article_5.html






武藤哲也リコーダー&オカリナ教室はこちら → http://folli-2.at.webry.info/201503/article_4.html 






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コメント(11件)

内 容 ニックネーム/日時
読み進むうちに この風景画も 花の絵も久保田さんが書くのかしら、、と
思ったら 工房の女性が描いていたのですか、、
まさに芸術品というべき 楽器ですね〜
弦をトリの羽軸で たたくということに 驚きました、、
なんの鳥なのでしょうか〜
きょうじんな 軸ですね、、
ちりちりと鈴の音のような チェンバロの響き〜 ♫
ほんとうに そばで 聞きたいものです、、
残念です〜
かたなんけ
2012/10/05 15:50
古楽を趣味としていることが幸せに感じるような素敵なレポートでした。
張りつめたいくつもの緊張感から生み出される作品。でもその音色は暖かく心に響くんですよね。
森の息吹と人の息吹が寄り添っていく過程を見せていただいたような、そんな気がしました。
P-san
2012/10/05 19:46
◇かたなんけさん

こんばんは♪
コメントありがとうございます。
お約束していた「チェンバロ工房探訪記」アップ出来てほっとしています。
いったいどこから書いたらいいのか、書きたいことは山ほどあって迷いい迷った結果、正攻法で行くことに決めました(笑)。

>花の絵も久保田さんが書くのかしら、、と

このチェンバロが久保田さんの手に寄るものですが、装飾の絵画について久保田さんがお描きになられたのか確認はしませんでした。絵はもちろん模写ではありますが、この空気感というか、遠くの山波が空気の中に滲むようなロラン独特の筆致を再現するには並大抵の技量では追いつかない様に思います。つまり相当熟練した人の手によるもの。響板の絵は、チャンバロ装飾の中で最も華やかで目を引く場所。そう考えれば久保田さんご自身がお描きになったと考えた方が妥当のように思われます。チェンバロという楽器は、視覚的にも感性を満足させる芸術性に富んだ楽器であることをしみじみ感じます。

チェンバロは、羽軸でたたくのではなく、はじくことで発音します。
そう言えば、はて?何の鳥なのでしょう??
昔は筆記具としても使用された羽軸、(羽根ペンを手にしたベートーヴェンの肖像画がありますね)耐久性はそこそこあるのでしょうが、やはり定期的に新しいものと交換したのではないかしら?羽軸ではじくという動作は爪で弦をはじいて音を出すお琴と同じですね。繊細で神秘的な響きがする一方で、「スキタイ人の行進」などで聴く音は、男性的で荒ぶる感じの響きがします。コンサートはこれからも継続して行う予定でおりますので、いつかお聴きいただける時もあるかと思います。どうぞよろしくお願い致します。
aosta
2012/10/05 20:57
◇P-san

おはようございます!
久保田さんのお作りになるチェンバロは音色も外観も本当に優美な楽器です。
ステイタス・シンボルであった、という事を実感させる美しさでした。
同じ時代の楽器ということで、チェンバロと共演できるのはいつの場合も大きな楽しみなのですが、今回は種々の理由により、チェンバロの調律は442Hzの平均律とせざるを得ませんでした。一般的なバロックピッチ(415Hz)とは約半音違うことになりますが、この半音の違いと平均律での調律は、Pにはすごく大きな事のようです。憂愁にみちたフィリドールのソナタ、翳りながら揺れる旋律を思うと残念でなりませんが、この夏蓼科でモダンのフルート、チェロとクヴァンツを演奏した時は、モダン楽器とピリオド楽器の壁を越えた高揚感のある素晴らしい演奏でした。いつまでもピッチや調律のことで悩んではいられません。どんな状況でも最大限お客様に愉しんで頂ける演奏をすることこそが自分の勤めであり、唯一自分にできることであるとPは考えています。それにしてもフィリドールの二短調ソナタは素晴らしい曲ですね。コンサートで演奏すると言う事もあって、今日も何回か聴きなおしています。

>森の息吹と人の息吹が寄り添っていく過程を見せていただいたような

本当にそのような演奏が出来たらどんなにか素晴らしいことでしょう。
Pによく伝えておきますね(笑)。
aosta
2012/10/06 09:09
凄いです。aostaさんがチェンバロに出会ったらこんな文章が生まれてくるのですね。音楽史でもあり、絵画鑑賞でもあり、音楽とは何かという問題提起でもあるんですね。それ自体完成したチェンバロやリコーダーが、時代の後景に追いやられ来たとは言え、今その真価に改めて光が当たる時代が来たのかもしれません。
ギターにしろ、本来は小さなボリュームしか出ない楽器ですが、それがエレキギターとなり、アンプとスピーカーを使って、若者を魅了するロック・ミュージックの楽器となった。となればチェンバロやリコーダーも現代の人々の心を掴む楽器となることができるかもしれませんね。
話を転じると、チェンバロの装飾が気になります。それは、近くにいる人しか見えないものですね。聴く者と演奏する者が相互に交代する身近な音楽空間があればこそ、その美しさを味わうことができた。しかし、せち辛い現代では、余分に経費がかかるのなら、それを買う人は少なくなりますね。やはり淘汰されずにはいないかな。商業ベースのことを考えると成り立ちませんね。貴族の時代であれ現代であれ、音楽を成り立たせている「力」のことを思わざるを得ません。
そのためにも、チェンバロやリコーダー、あるいはフラウトトラヴェルソの、なんとも言えない響き、疲れを癒してくれる旋律、余韻の持つ暖かさなどを、生で味わえる機会が大事になってきます。今回の「ミューズの調べ」がその一歩となればいいですね。
山栗
URL
2012/10/06 20:49
◇山栗さん

その節はありがとうございました。
あの日、山栗さんが用意してくださったレジュメを打ち合わせから帰って、Pに見せたところ、「さすが山栗さん!」と感心しておりました。あの一枚のおかげで確認事項が見落とされることなく、内容の濃い打ち合わせが出来たのだと思います。その他の準備も大変だったことと推察いたします。本当にありがとうございます。久保田さんのチェンバロ工房にはご一緒できなくて本当に残念でした。

大音量で演奏されるロックは、言うなれば大編成のオーケストラのようなもの。どちらも音の大きさが勝負です。リコーダーやチェンバロと言ったバロック時代の楽器とは対極にあるスタイルと思います。クラシックであれ、ロックであれ、大音量という点においては共通していますね。
昨今、古楽が関心を集めるようになったのも、かつて音楽が身近にあったことの意味が問い直されてきた一つの結果かもしれません。チェンバロの芸術的装飾が、楽器の間近にいる人しか見ることが出来ない、という事実は、とりも直さず、それだけ音楽と人との関係が近かったからにほかならないでしょう。時代とともに変わって行ったのは音楽だけでなく、「人と音楽」の関係も大きく変わってきました。チェンバロはじめとするピリオド楽器の響きは、人と音楽を近づける、親和性に満ちたものであり、そうした楽器で奏でられる音楽もまた然りです。

> チェンバロやリコーダー、あるいはフラウトトラヴェルソの、
> なんとも言えない響き、疲れを癒してくれる旋律、余韻の持つ
> 暖かさなどを、生で味わえる機会が大事になってきます。

本当に仰る通りだと思います。
フラウト・トラヴェルソ始められませんか?
aosta
2012/10/07 07:09
aostaさん
すっかりご無沙汰してしまいました。
いつぞやは大切なわんちゃんが具合の悪い時にご迷惑をおかけしてしまいました。
私もあれから職場の方がお亡くなりになったり、
お辞めになったりして、環境が大きく変化してしまいました。
この歳になると変化に弱いので、考えることをお休みしていました。
チェンバロ、若い頃は、音の繊細さも躯体の繊細さも分からず
チェンバロの上に楽譜を置いたりして良く叱られたものです。
私が音楽を勉強していた頃は、それこそ「現代音楽」全盛期でした。
現代音楽を演奏しないなんて進歩のない証拠なんて言われましたよ。
なんと言われてもバロックばかり勉強してきて良かったと思っています。
今から30年近く前の現代音楽は、今ではなんと呼ばれているのかしら?
自然に囲まれて、本当に自分のためにだけ演奏する時、
不思議とバロックの音楽を選んでしまいます。
当時の人々の生き死には今の時代よりもずっと身近だったに違いありません。
そんな時代の音楽に寄り添う時、これからの自分の生き方を見つめなおし、
余分なものは捨てていかなければならない時代へのヒントを得ることが出来ます。
耳を澄まさなければ聞こえないもの。
人と人との体面でしか起こりえない心の動き。
見えないものへの気持ちの高まりを感じられる楽器の一つだと思うのです。
Bluebell
2012/10/09 10:57
◇Bluebellさん

コメント欄で久しぶりにBluebellさんのお名前を見つけることが出来て、嬉しいです。そういう私の方も、ここしばらくそちらにお邪魔しないままで、申し訳ございませんでした。コメントが反映されなかった理由は今だに判りませんが、とにもかくにもこうしてまたお話が出来るようになって本当に良かった!

Bluebellさんもお心を痛める出来事が続いていたのですね。ボンボンのこと以来、私も無力感というか、脱力感に襲われ、自分でも気がつかないうちにブログから遠ざかり、それが日常になってしまいましたが、ここにきてなんとか以前のリズムを取り戻してきたように感じています。主人のコンサートも迫ってきて、いつまでもぼんやりしていられない、という外的な状況もあったのですが、結果的にはそれが良かったのでしょう。

>自然に囲まれて、本当に自分のためにだけ演奏する時、
>不思議とバロックの音楽を選んでしまいます。

こう演奏すべし、という作曲家の指示が事細かに楽譜に記載されるようになったのは古典派以降の音楽、それも特にロマン派以降であったかと推察いたします。それと対照的に、演奏者に表現の自由が任される部分が多いバロック音楽は、演奏者により相手により、自在に変化する、まさに一期一会の音楽ですね。音楽が時間の芸術、と言われる所以であり、バロック音楽はその表現において不可逆的であると感じています。

長くなりそうなので分割させて下さいね。
aosta
2012/10/09 16:33
◇Bluebellさん

>人と人との体面でしか起こりえない心の動き。

「心の動き」こそがバロックの音楽であるならば、本当の意味で「相手があって、音楽がある」という事なのだと思います。オーケストラのマッスの音の響きの中からは聴こえてこない、ひそやかな音楽の肉声のようなもの。そうしたものを感じさせてくれる楽器が、チェンバロであり、リコーダーであるのでしょう。光の反射や、水の揺らぎを感じさせてくれる楽器がチェンバロだとしたら、リコーダーは風の楽器。私たちを取り囲むものから、自然が失われつつある現代だからこそ、こうした響きが心に沁みてくるのだと思います。
一方でチェンバロは、繊細優美な響きだけでなく、ざわめく感情をデーモニッシュなまでに表現できる楽器でもあるように思います。まさにBluebellさんが仰られるように、「見えないものへの気持ちの高まりを感じられる楽器の一つですね。
フラウト・トラヴェルソのご経験もおありだというBluebellさん、その音色を聴かせていただける日が来ることを楽しみにしています。借り物ではありますが、我が家にはスピネットもございますので、トラヴェルソとリコーダー、スピネットでのアンサンブルも不可能ではありません。いつかきっとお会いしましょうね。
aosta
2012/10/09 16:34
コンサートを終えられて、今日は少しホッとしてお過ごしになれているでしょうか。
きっと奏者と聴衆と、素晴らしい時を共有なさったことと思います。こういう時は本当に距離が恨めしくなります。
このところ慌ただしくてゆっくり読めなかったところ辿って、先程から楽しませていただいております。aostaさんの手にかかると本当に美しくぴったりと修まる文章で、まるでそれが自分のそばにあるように感じさせてくださるので、導いてくださる世界に浸ることができるのです。

チェンバロのことは私も長い間何も知らずに過ごしてきました。笛の音に耳を澄ませるのが楽しくなるにつれて、チェンバロに惹かれ始め、今では笛の音と同じくらい心揺さぶられる楽器になりました。それまでの時間がとても勿体無かったように感じます。「耳を澄ませて聴く」ということで、より音に敏感になるのかもしれません。紹介されている久保田彰さんのDVD付きの本、アントレのところでポチっとして是非読んでみたくなりました。
アルト笛
2012/10/21 13:29
◇アルト笛さん

コメントありがとうございました。
コンサートの当日まで紆余曲折の多かった今回の演奏家でしたが、蓋を開けてみましたら、100枚用意したチケットは完売。和気あいあいとした中で始まったコンサートは手応えのある素敵なコンサートとなりました。チェンバロは先日久保田さんの工房で拝見させていただいたもの。残響が1秒を欠けるホールと言う事でちょっと残念だったのですが、音自体はとても素晴らしく、最近チェンバロに嵌っていらっしゃる(笑)アルト笛さんがいらしたら、さぞかし喜んでいただけたのではないかと残念です。(コンサートに関しましてはまた改めてブログにアップしたいと思っています。)
聴く曲により、聴くときの想いにより、乱反射する光のように、また五月雨のように、星の瞬きのように聴こえてくるチェンバロの響きは本当に魅力的ですね。
久保田さんの著書についているDVDでの演奏も素晴らしいです。ちょっとお値段が気になりますが、お値段以上に満足していただけるのではないかと思います。
aosta
2012/10/23 07:04

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