「リコーダーオーケストラのための狂詩的寓話」 / 「真昼のプリニウス」




横浜は磯子区文化センター杉田劇場で開かれたリコーダーフェスティバルに行ってきた。

リコーダー奏者、吉澤実さんが指導なさっているグループの演奏会。
作曲者であると同時に御自身もリコーダーを演奏なさる斉藤恒芳さんの新曲も初演されるということで
P氏には前日から少なからずその心づもりがあったらしいが、私には「寝耳に水」の話であった。
いつもの朝と同じ時間に朝食をとっていると、P氏から唐突な宣言。
「今日は横浜に行くぞ!」
「え?! 横浜?」
「8時出発!!」
これは提案ではなくすでに決定済みという、これまたおなじみのパターン。

で、会場である杉田劇場に到着したのは開演1時間前の12時だった。
大急ぎで昼食を済ませ会場に直行する。


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「フェスティバル」という名前の通り、何組ものグループのリコーダー演奏を楽しんだ。
休憩をはさんで第2部の最初に演奏された、今回初演の「リコーダーのための狂詩的寓話」は、
2011年3月の震災と原発事故の「脅威」「悲しみ」「祈り」を託した作品。
ギリシャ神話にインスピレーションを得たという2曲と、帝政期のローマに実在した、政治家・軍人であり博物学者でもあったプリニウスに因んだ作品の合計3曲で構成されている。
演奏は吉澤実さん率いるプロの奏者8名。
作曲者である斉藤さんご自身も、演奏者の一人として登場されると聞けば、いやがうえにも期待は高まる。

                  

「天界の王・冥界の王」

ギリシャ神話における天界の王ウラヌスと冥界の王プルート。
その名前は、天王星と冥王星を意味すると同時に、放射性元素ウランとプルトニウムの語源でもあるという。

核分裂をイメージした、というこの曲は、暗く呻吟するようなコントラバスの響きで始まる。
やがてソプラニーノの鋭く切り裂くような音が、コントラバスの響きを遮る。
テナーとアルトの仲介むなしく、加速度的に、しかし無慈悲に繰り返される核反応のように、
淡々と演奏される音楽を聴きながら、私は本来人間界にあり得なかったはずの「神の火」を思う。
ソプラニーノとコントラバスとの掛け合いには沈潜する怒りがあった。
本来「祀られるべきもの」であった「神の火」を徒(いたずら)にもてあそんだ人間。
もしかしたら、この曲は神の火を鎮めるためのひとつの祀りなのかもしれない。




「ガイウス・プリニウス・セクンドゥス」

ヴェスビアス火山の噴火によって、一夜にして灰燼に帰した町、ポンペイ。
そのポンペイに向けて救援の船を出したローマ艦隊司令官プリニウスが見たものは、確かに昨日までは「世界の一部」であったポンペイの町が、災害によって、世界から切り離されもはや手の届かないところに行ってしまったという悲劇的な現実であった。
プリニウス自身、火山性のガスに巻かれ救援を果たせないまま絶命したという。
かつての繁栄の名残りさえもない変わり果てた町を、為す術もなく、ただ「見る」ことしかできなかった彼の悲しみと無念を思うとき、刻々と映し出される衝撃的な映像の前で、滂沱の涙で頬を濡らしながら、言葉を失っていた一年前のあの日の想いが重なってゆく。さればこそ、ひたひたと船べりを打つ波の音の如きコントラバス・リコーダーのリズムが、涙の滴りの音にも聴こえてくるのだ。




「ペルセポネーの誘拐と帰還」

冥府の王ハデスに見初められたがために、冥府に連れ去られたペルセポネー。
彼女の母である大地の女神デメテールは娘を失った悲しみにうちひしがれ、女神の祝福を失った大地は荒廃し作物は実る事を忘れてしまう。
事態を憂えたゼウスの仲介によって、ペルセポネーは一年の三分の二だけは地上に戻れるようになった。
ペルセポネー不在の長い悲しみの冬が終わり、彼女の帰還とともに命は一斉に芽吹き、花を咲かせる。

しかしながら、被災した土地においては、人は、思い出は、どこに帰っていったらいいのだろう。
帰るべき場所を失ったままの命、希望、そしてあまたの夢が、再び自らの居場所を見つけたその日こそ、
地は帰還の喜びに湧き上がる事だろう。
その日のための言祝ぎとも言うべき音楽。
それがこの「ペルセポネーの誘拐と帰還」に託された想いではあるまいか。
祝祭的雰囲気に満ちたこの曲は、あまりに多くを失った東北の再生への希望と祈りにほかならない。



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この曲を聴きながら私は池澤夏樹の小説「真昼のプリニウス」を連想していた。
同じプリニウスという人物からの単純な連想、と行ってしまえばそれまでだが、
人間は世界とどういう形で向かい合うか、という主題に貫かれたこの物語の中に引用されている、1783年の天明浅間山噴火の被災者が残した古い記録を思い出したのである。特別の知識や経験のない、極普通の女性が見た噴火の顛末と、その時の彼女の胸に去来した様々な想い・・・
まだ少女であった時代に経験した大噴火を、年老いてから記録したというこの「記録」自体、もしかしたら作者の創作であるかもしれないと思いつつも、そこに記された「その日」の記述には、今回の大震災と共通するものがあった。
斉藤さんが表現したかったものは、自然災害という、ある意味では「個人的な不幸」あるいは「他者の不幸」の後ろから見えてくる普遍的な真実にこそあったのではないだろうか。

災害をどのように「解釈」するか。
言い変えるなら、どのように災害と折り合いをつけ和解するか。
有史以来、日本人はさまざまな天変地異を経験し、それを乗り越えて、ここまでやってきた。
私たちの祖先が経験した数しれない天災。その記憶は大いなる知恵として結実しているが、今回は天災に加えて、さらにゆゆしき人災とどう向かい合うか。
その問いは始まったばかりである。



「リコーダーのための狂詩的寓話」
この曲に込められた作曲者の思いに近づきたい、と願う。
震災時、被災された方たちを、音楽によって慰める、勇気づける、という目線に違和感を感じられたという斉藤さんは、何かを「してあげる」のではなく、被害を受けた人々と同じ場所に立って、そこで感じたことを音楽に託したかった、と仰られる。
そこには、「起きてしまったこと」と「起こってしまった事実」への真摯な目線と、深い共感のこころがある。

吉澤実さんが主催するプロのリコーダー・アンサンブル・ユニット、La Strada ラ・ストラーダ」による演奏は、透明で明晰、知的であると同時に、ふつふつとたぎる「熱い想い」という、相反するものがひとつになった素晴らしい演奏だった。




武藤哲也リコーダー&オカリナ教室はこちら → http://folli-2.at.webry.info/201503/article_4.html 









この記事へのコメント

bunbun(中ぶんな)
2012年03月06日 15:54
吉澤実先生、昨年の12月4日、ヤマハホールで。多くのコーダー演奏者とのユニット。おいでになった理由も納得。多岐にわたるリコーダーの特質を活かした演奏には大いに心躍ったことでした。
斉藤恒芳さんの目線が本来あるべきというか自然らしいそれで好感を覚えることです。「リコーダーのための狂詩的寓話」、「天界の王・冥界の王」では、ついバルトークとかストラヴィンスキーのような音色を想像してしまいましたが。核分裂を音でイメージする、途方もないことを思い巡らせる方がいらっしゃるものです。
池澤夏樹、寺田 匡宏 さんのページにちょっとお邪魔し小説「真昼のプリニウス」についてすこし助けて貰いました。aostaさん仰る「個人的な不幸」の後ろから見えてくる普遍的な真実をテーマとする曲ではないかという斉藤さんの曲、何か深遠な感じがこめられていそうです。
2012年03月06日 21:54
◇bunbunさん

コメントありがとうございます。
bunbunさんも吉澤さんのリコーダー演奏会にお出かけになられたんでしたね♪
吉澤さん、今回は3曲ともソプラニーノを演奏なさいましたが、それぞれの曲の中で、ソプラニーの鋭角的な響きは、ある時は挑戦的にまた威嚇的にまたある時は軽やかに、自由自在にその存在を主張していたように思います。
「この世的」ではないと言ったらいいのかしら。
重力や種々の戒めから解放されて存在する、何ものかのメッセージのようにも聴こえました。
私はリコーダーは人の呼吸に一番近い楽器だと思っています。
悲しみの時も、喜びの時も、また怒りの時も、呼吸は感情の発露。
その意味においてリコーダーは最も雄弁な楽器のひとつあると思います。
けれども「リコーダー・オーケストラのための狂詩的寓話」の場合はむしろストイックに抑制された音楽という印象を持ちました。過剰なものがない分、くっきりとした輪郭を持って浮かび上がる想いがあったように思うのです。

「真昼のプリニウス」お調べ頂いたとのこと、恐縮です。
「個人的な不幸」という書き方には語弊があったかもしれませんが、どのような災害においても「渦中のひと」とそれ以外の「他者」がいる事は事実です。
この両者がどのように向かい合うのか。
今回のように、すべての根底を覆すような災害のあと、両者を結ぶべき橋を構築する事はいかに困難なことでしょう。乞い願わくば、斉藤さんのこの音楽がこの橋のひとつ足り得ることを祈ってやみません。
bunbun(中ぶんな)
2012年03月07日 21:00
ああ、ありがとうございます。ソプラニーノ、あの日もその音は印象的でした。aostaさんの文章でほんとうに突如耳に甦りました。息子の引き回しにのっただけの行脚でしたが、ほんとうによかったと思いだします。
>重力や種々の戒めから解放されて存在する、何ものかのメッセージのようにも聴こえました。
この表現すごいなとおもいます。この表現から音を想像してみると決して落ちることのない消えることのない何者の脅かし抵抗もうけることのないそんな表出が連想されます。
>「リコーダー・オーケストラのための狂詩的寓話」
私が想像したものとはかなり違っていたようですね。しかし「ストイックに抑制された音楽」となれば輪郭がおぼろげに。作曲の研究発表作品の中に聴いたことがあります。何れ実際に聴く機会があるかもしれません。
ほんとうに行く幾万の言葉よりも心に染みる音楽、旋律が両者を結ぶ橋の一つとなり得ることを私も期待したく思います。
お忙しい中、丹念にお応えいただきまして感謝を申し上げます。
2012年03月07日 22:16
◇bunbunさん

こんばんは。
リコーダーでは4フィートより8フィート、オーケストラでは低音弦が好きな私なのですが、今回の吉澤先生のソプラニーノは何か特別の印象で聴いていました。尖鋭的で硬質なその響きに、超越的なものを感じてしまったのです。

>何れ実際に聴く機会があるかもしれません。

まだ先の話になりますが12月に銀座のYAMAHAホールで斉藤さんの作品展が予定されてるようです。もしかしたら、というよりかなりの確率で、この曲が演奏されるのではないかと思います。
御都合がつくようでしたらぜひお出かけ下さい。
URL添付させていただきますね。
かげっち
2012年03月09日 12:03
リコーダー音楽にはごぶさたしていますが、読んでいるうちに聴きたくなってきました。最近、音楽そのものにふれる時間が足りないのです。吉沢実さんのお名前も久しぶりに思い出しました。シャープな音楽という印象を記憶しています。
2012年03月09日 19:54
>被害を受けた人々と同じ場所で そこで感じたことを 音楽に託す

建築家 伊東豊雄は 熊本アートポリス支援を受け 
仙台の避難所に「みんなの家」を造った
共同のリビングにという発想で
そこに暮らす人々と街を想うおおくの人々と共に 建築は出来る
伊東 豊雄の言葉を思い出しました

2012年03月09日 20:26
◇かげっちさん

こんばんは。
コメントありがとうございました。

>最近、音楽そのものにふれる時間が足りないのです。

このブロぐに頂くコメントを拝見していても、出張続きでお忙しい毎日であることを推察致します。時間に追われるように日が過ぎて行くときは、確かに「音楽に触れる」という至福の時を楽しむことは難しいですね。
音楽に限らず、美術や文学と言ったものも、心持が穏やかな時にこそ、出会えるような気がします。特急やリニアではない、各駅停車のようにゆっくりとした時間の流れ方が、とても大切なもののように思えるこの頃です。

吉澤さんとは、3年ほど前でしたか、銀座のヤマハでお目にかかって以来でした。
2012年03月09日 20:42
◇バクさん

いつも気持ち玉をありがとうございます。
伊東豊雄さんというお名前は初めて伺いましたが、ネットで調べさせていただきましたところ、長野県、それも諏訪に縁のある方でいらっしゃるのですね。下諏訪は母の実家がある街、幼少期の懐かしい記憶の町でもあります。

>そこに暮らす人々と街を想うおおくの人々と共に 建築は出来る

建築物とは不思議なものです。
私にとって「建築」とは、人々の記憶と息使いによって彫琢されてゆくものという感覚があります。「みんなの家」共同のリビング、に近い感覚かもしれません。”場所”を作った人と、その”場所”に集う人との気持ちに乖離があったとすれば、そこは「みんなの場所とは言えない。人と人が同じ場所で想いを一つにする。斉藤さんの音楽も、伊東さんの建築も、根っこは同じなのだと気づかされました。
ねこギター
2012年03月10日 23:13
池澤夏彦さんの「真昼のプリニウス」を読んでみました。
やはり一番印象に残ったのは、天明の浅間山大噴火の「体験記」の部分でした。
石の雨が降り、溶岩が村を飲み込み、岩と泥に堰き止められた川の氾濫で人々が流される…
実際に当時の古文書に詳しく惨状を記したものがあるそうですね。
村の女性が後年、字を覚えて書き記したという設定は、池澤の創作なのでしょうか。
この描写を読んだとき、昨年の震災・津波の映像がまざまざと浮かびました。

地球時間の地殻活動に対して、「経済」という刹那的時間の認識で物事を進めてしまう浅はかさ、愚劣さ。
その経済さえもっとも不確実なのもので、都合のいい予測に裏切られ翻弄されるパターンなのに。
汚染された土地も、復興の具体的な進捗も、政治のニュースを見るとイライラします。
それでも日本人は、頑張っている、エライなとも思っています。

そういえば、ずいぶん音楽会や美術館に行っていないのに気づきました。
だいぶ暖かくなってきたので、時間をみつけて行けたらなあと思います。
人はなぜ表現するのか。またなぜ表現されたものを見たいのか。
現実と表現の距離。当事者と他者。もどかしさ。
それでも表現することで、すこしでも近づくことができるなら。
「真昼のプリニウス」はそんなことを考えさせる作品でした。
Bluebell
2012年03月11日 11:22
すっかりご無沙汰してしまいました。
年度末はいつもそうなんですよ。
杉田劇場はちょっと近いので、
今度、前もって分かっている時には
ぜひ、ご連絡くださいね。
お会いしたいです。
(こんなコメントですみません)
2012年03月13日 16:09
◇ねこギターさん

コメントありがとうございます。
わざわざ「真昼のプリニウス」をお読みいただいてのコメントでしたのに、お返事が遅くなってしまい申し訳ありません。

>池澤の創作なのでしょうか。

ハツという女性、彼女が残したと言う作品中の文書については多分創作なのでしょう。でも、この噴火に際しては量的にも質的にも詳細な記録も残っているようですので、そうした古文書にあたって書かれたものと思います。

「真昼のプリニウス」の中に、主人公である火山学者、頼子の言葉として、不動だと信じている地球表面(地殻)がいかに脆弱で不穏なものかという記述が出てきました。不動であると感じているのは、人間に与えられている「とき」で測っているがために過ぎず、けた外れの単位で変化を繰り返す「地球時間」に思い至らないのだと。最小の労力で最大の効果を得ることで試行錯誤を繰り返す人間という存在は、なんと傲慢で儚いことでしょう。

>人はなぜ表現するのか。またなぜ表現されたものを見たいのか。

これもまた、この小説の大きなテーマのひとつだと思います。
文学にせよ、音楽にせよ、およそ芸術というものは、言うなればみなひとつの「ものがたり」なのでしょう。人間は「表現すること・されること」を必要としている。表現することによって「個の体験」の枠を超えるものになる。
その枠を超えた物だけが、何百年、いやそれ以上の時間を生き延びて私たちに語りかけてくるのでしょうね。それでも、根っこにあるのはすべて「個」としての経験なのだ、という事は、考えてみれば凄いことです。

「音楽」と「文学」。
それぞれが立っている場所、表現の方法は違っても、遠く隔たる存在をつなげようとする大いなる試みなのかもしれない・・・
ねこギターさんのコメントを拝見してそんな風に考えました。
2012年03月15日 10:46
◇Bluebellさん

こんにちは!
お忙しいところ、コメントをありがとうございました。

>ぜひ、ご連絡くださいね。お会いしたいです。

そう言えばBluebellさんは横浜(?)にお住まいなのでしたね。
次回、そちらに伺う事がありましたら必ず連絡致しますね。
ただ、今回のブログにも書きましたように、我が家の場合、その日の予定が当日突然決定されることが多いので、むしろBluebellさんがこちらにおいでの際、ご連絡を頂ければ、そのほうがお目にかかれる可能性は高いかと思います♪
実際の「私」はブログのaostaとはイメージがちょっと違うかもしれませんが、悪しからずお許し下さい

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