みつばのおひたし あるいは「骨」



雨上がりの朝、足元の下草がまだしとどに濡れている庭でみつばを摘んだ。

雨で重くなった名残りの桜が、風もないのに花びらを散らしている。

洗いおけに張った水にみつばを放すと、淡い薄紅色の花びらが何枚もたゆたうように浮かんできた。
鮮やかな緑と花びらの薄紅は、そのまま、逝く春の色だ。




画像






春の香り、春の彩りのみつばのおひたし。
きゅっきゅと小気味よい歯ごたえを楽しみながら、中也の詩を思い出していた。





             「骨」   中原中也 


        ホラホラ、これが僕の骨だ、
        生きてゐた時の苦労にみちた
        あのけがらはしい肉を破つて、
        しらじらと雨に洗はれ、
        ヌックと出た、骨の尖(さき)。

        それは光沢もない、
        ただいたづらにしらじらと、
        雨を吸収する、
        風に吹かれる、
        幾分空を反映する。

        生きてゐた時に、
        これが食堂の雑踏の中に、
        坐つてゐたこともある、
        みつばのおしたしを食つたこともある、
        と思へばなんとも可笑(をか)しい。

        ホラホラ、これが僕の骨――
        見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
        霊魂はあとに残つて、
        また骨の処にやつて来て、
        見てゐるのかしら?

        故郷(ふるさと)の小川のへりに、
        半ばは枯れた草に立つて、
        見てゐるのは、――僕?
        恰度(ちやうど)立札ほどの高さに、
        骨はしらじらととんがつてゐる。



                           詩集「在りし日の歌」より






まるで他人事のような視線で、中也は自らの骨を眺めている。
乾ききったそれは、何ものからも解き放たれ、自由で清浄なまでに白い。
骨、すなわち「死」は、あっけらかんとした明るさの中で風に吹かれている。
生も死も一つのフィクションと見る中也の視線は、透徹している分、哀しい。
生きることをフクションにしなければならないほどに、彼にとって生活が重圧だったと言う事なのかもしれない。
道化やカリカチュアライズこそが、中也の唯一生きることへのバネであり、抵抗であったということなのだろうか。





        生きてゐた時に、
        これが食堂の雑踏の中に、
        坐つてゐたこともある、
        みつばのおしたしを食つたこともある、
        と思へばなんとも可笑(をか)しい。




中也は「おひたし」ではなく、「おしたし」と書いている。
びょうびょうと風に吹かれる白い骨とみつばのおしたし。
音も色もない世界に、突然のみどり。


春の香りは、命の香り。
心地よい余韻を残す歯応えは命の手応え。

中也はみつばのおひたしが好きだったのだろうか・・・
おひたしを食べながら、そんな意味のない疑問が頭をよぎっていた。










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この記事へのコメント

bunbun
2011年05月29日 06:57
中也の詩、寂寞、諦観、自嘲を感じます。いまひとりの魂がそれを傍観的に客観視しているような。中也の詩は好きです。
最近お骨を見たばかりです。こちらは生前の人柄から言えば、「じゃじゃじゃ、俺もこっただ骨っこになったが」そして大笑いしていそうなのですが。
中也の傷つきやすさ繊細さをおもいます。
aostaさんのお料理、美的です。わたしもよく三つ葉を摘んでは湯がきます。食べ物の香り、思えばこれも不思議です。
minimana
2011年05月29日 09:01
三つ葉のお浸しの上に桜の花びら
春のなごりのひと品ですね(^^)

aostaさんのお庭の三つ葉は自然に生えてきたものですか?
何となく三つ葉の方がaostaさんちを選んで生えたような感じがします(^^)

大地の恵みを食することができる毎日は
本当に幸せ~と思えてしまう私は、繊細さももろさもなく
大根のような太さと逞しさしかないのかもしれない(--;)

2011年05月29日 13:20
◇bunbunさん

中也の詩の中で吹いている風はいつも白く乾いているような気がします。
この詩の中で棒杭のように立っている骨には、この世的な猥雑さを脱ぎ捨てた潔さのようなものを感じます。言うならば「孤高の骨」(笑)。

>「じゃじゃじゃ、俺もこっただ骨っこになったが」

聞き覚えのアクセントで声を出して読ませていただきました。
不思議なユーモアを感じます。折りにふれ、bunbunさんが書いて下さったお義父さまのイメージを改めて彷彿させられました。そうですね、きっと笑っていらっしゃるのでしょう。生身の身体から解放された痛快な笑い声です。

庭のみつばはこの時期、わんさか生えてきて、毎食おひたしにしても間に合いません(笑)
2011年05月29日 13:28
◇minimanaさん

種を撒いた記憶も、植えた記憶もないみつば、いったいどこからお出ましになったのか私にも不思議です。不思議と言えば、庭のあちこちから顔を出しているみつばですが、なぜか桜の木の下に群生しているんですよね。単純に半日陰が好きと言うだけなら、他の樹の下にも生えてきそうなものですが、なぜか複数ある桜の木の下を選んで生えてきます。
大根は私も大好きです。生で良し、煮て良しの万能選手ですが、私が大好きなのは大根おろし。焼き魚はもちろんのこと、唐揚げにも、お蕎麦にも大根おろしをたっぷり。どちらがメインなのか判らないくらい(笑)。
大根の真っ白な肌理、瑞々しさもminimanaさんにお似合いですよ。
かげっち
2011年06月01日 12:30
タイトルを見たときは???と思いましたが、中也だったのですね。辛いこと悲しいことでも乾いた言葉で飄々と語ってみせるのは、誰にでもできることではありません。そういうことのために詩人の言葉はあるのだ、と感服してしまうのが中也です。彼の詩を絶叫するライブもあるようですが、わたしは絶叫より飄々が好きです。

みつば、うらやましいです。幼い頃のわが家では、さくらんぼの樹の下ではなく、軒下に生えていました。
2011年06月01日 21:49
◇かげっちさん

私も絶叫ライブは中也に似合わないような気がします。というより、中也は絶叫などしないのではないかしら。やっぱり「飄々」ですよね。

初めてこの詩の中で、「みつばのおしたし」に出会った時は、何とも奇妙な感じがしました。どうして「おしたし」なのか。取ってつけたような唐突さで出現する「おしたし」と「骨」若しくは「死」との落差。思えば中也は、「また来ん春」で愛児文也の死を嘆くときも,「象を見せても猫(にゃあ)といひ、鳥を見せても猫(にゃあ)だった・・・」と,一見とぼけたような書き方をしていますが、その言葉の裏に、底が見えないほど深い悲しみ、悔恨の強さ、自責の念、といったものが感じられます。この意表を突く展開は、中也の最も中也らしいところかもしれませんね。時としてシュールなまでに唐突な落差です。

みつばはとても強い植物ですから、例えば、根みつばの根っこの部分を捨てずに植えておいたら生えてきそうな気もします。虫が良すぎる話かしら??
2011年06月02日 14:41
お庭で摘んだばかりの柔らかな三つ葉のお浸し、それに桜の花びらを載せるなんてとってもお洒落ですね~!来年マネしてみましょう。 軽井沢の従兄弟の民宿の庭にもあちこちに三つ葉が出ていて、よく母が摘んでお浸しで食べていました。以前の我が家でも種であちこちに増えて。 今は狭きベランダ。根三つ葉を買ってプランターに植えて増えています。美味しいですよね。
2011年06月03日 05:13
◇mintさん

コメントありがとうございます。
桜の花びらは、その後塩漬けにしてみました。初めての事で要領がわからないままの自己流ですが。上手にできれば、お料理のあしらいや、桜茶漬けなど(笑)が楽しめるかもしれません。

根みつばをプランターで育てていらっしゃるんですね!
あの根っこ、捨てるにはおしいな、と思っていました。欲しい時にすぐ役に立つ、至近のキッチンガーデンですね(^^♪

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