消えがてのうた part 2

アクセスカウンタ

zoom RSS 「流浪の民」 / シューマン (訳詞:石倉小三郎)

<<   作成日時 : 2010/11/12 22:51   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 4 / トラックバック 0 / コメント 8




蓄音器のラッパから聴こえてくる今は亡き主人の声に耳を傾ける犬。
言わずと知れた、ビクターのシンボルマークが描かれたSPレコードのタイトルには「流浪の民」。

私がまだ小学校に上がる前だったでしょうか。
茶の間の一角に、両親が子供たちのために選んだレコードが並んだ、小さなラックがありました。

モーツァルト、ハイドン、ボッケリーニの小品の中にたまたま紛れ込んでいた一枚がこの「流浪の民」。
おそらく、私が初めて聴いた合唱曲だと思います。
12インチ盤にくらべて、10インチ盤の「流浪の民」は、一回り小さかったとはいえ、
子供のために選んだ曲とも思えませんから、前述の通り、紛れ込んでいたのでしょう。



画像







それは当時まだ幼かった私にとって、異様とも言える曲でした。
まだ合唱曲と言う認識を持たないまま聴いていたその曲の、ざわめき、泡立つような旋律とリズムに
不安なものを感じながらも、たびたび聴きたいと思ったのはなぜだったのでしょう。
同じ棚にあった「ペール・ギュント」の「山の魔王の洞窟にて」もまた、子供心にどこか不安を感じる曲でしたが、
「流浪の民」には、それ以上に、暗くうねりながら迫ってくるような、また追われるような怖さがありました。
私が時々この曲を聴かせてほしいと、ねだったのは一種の「怖いもの見たさ」であったかもしれません。





           「流浪の民」 エマニュエル・フォン・ガイベル詩 石倉小三郎訳


      ぶなの森の葉隠れに宴寿(ほが)ひ賑はしや
      松明明く照らしつつ木の葉敷きてうついする
      これぞ流浪の人の群れ眼光り髪清ら
      ニイルの水に浸されて きららきらら輝けり

      燃ゆる火を囲みつつ強く猛き男やすらふ
      女(おみな)立ちて忙がしく 酒を酌みて差しめぐる

      歌い騒ぐそが中に 南の邦(くに)恋ふるあり
      悩み払う祈言(ねぎごと)を語り告げる嫗(おうな)あり

      愛(めぐ)し乙女舞い出でつ
      松明明く照り渡る
      管絃の響き賑はしく
      連れ立ちて舞ひ遊ぶ

      既に歌ひ疲れてや眠りを誘ふ夜の風
      慣れし故郷を放たれて夢に楽土求めたり

      東(ひんがし)空の白みては夜の姿かき失せぬ
      ねぐら離れ鳥鳴けばいづこ行くか流浪の民





かつてヨーロッパで、定住する地を持たず、馬車を連ねて旅から旅を重ねたジプシー(ロマ)は、
決して社会になじもうとしない、異端とも言うべき存在でした。
人々から蔑視され、忌み嫌われる彼らは、同時に何ものにも属すことなく、ゆえに何ものからも自由でした。
ロマン主義の時代を生きたシューマンの自由へ憧れがこの曲をかかせたのでしょうか?
弱音で始まり、転調を重ねながら次第に高揚して行く音楽は、殊更にツィゴイナー(ジプシー)的旋律を使っていないにも関わらず、野営をするジプシーたちの姿がありありと浮かびあがらせます。



素晴らしいのは音楽だけではありません。
久しぶりにこの曲を聴いて、石倉訳の素晴らしさを改めて強く感じました。
言葉のひとつひとつが鮮明なイメージを持って迫ってきます。
暗い情熱を感じさせるリズムと旋律にぴたりとはまった詩句には、小気味よい緊張感と勢いがあります。
原詩を超えた、といわれる所以です。
第一連の最終節にある「ニイル」とはナイルのドイツ語読み。
作詞者である石倉氏が、二イルがナイルであることを重々承知の上で、あえて「ニイル」とされたのは、
歌うと言う事を第一にされたがための判断で合った私は思います。
けれどもこの「ニイル」の一件を取り上げて、石倉訳は誤りが多いという苦言を呈する方もいらっしゃるようです。
「ニイル」だけでなく、最終連で「ねぐら離れ鳥鳴けば・・・」と訳されている「鳥」が原詩には登場しないこと、逆に原詩にある騾馬の姿が見当たらないことの指摘もあります。

石倉さんの訳が正確か、と問われれば、なるほど正確ではないかもしれません。
でも正確に、厳密に、一字一句を訳すことが必ずしも心を打つ訳詩になるとは限らないと思います。
確かに、技術書や取扱説明書の場合、「正確」であることは何よりも優先さるべき重要事項でしょう。
けれどそれが音楽と一体となるべき歌である場合はどうでしょう。
音楽と言葉の出会いは、イマジネーション同志の出会いでもあります。
増してや、独逸語から日本語へと異なる文化、異なる言語への変換です。
イマジネーションの豊かさが、正しく厳格に訳すことだけで生まれるとは思えません。
「意訳」はある意味、必然。
石倉さんの訳に対しての「原詩を超えた」という賛辞は、優れた翻訳は同時に一つの創作であるという事実を端的に言い表した言葉であると思います。
正確に訳すことにのみ固執していたのでは、かくも文学的香気に満ちた格調高い訳詩は生まれなかったでしょう。
音楽学者であり文学者でもあった氏が、シューマンの音楽に、ガイベルの詩に、深く感動する心を持っていらしたからこそ、可能であったのかもしれません。

音楽と言葉の、幸せな結婚。
それがこの「流浪の民」において実現したのだと・・・。


画像

「ジプシーのキャンプ」 エッチング ジャック・カロ






★シューマン 「詩人の恋」/傷みと憧れ  → http://follia.at.webry.info/200705/article_7.html


★シューマン「流浪の民」(演奏) → http://papalin.yas.mu/W903/#M022  

    シューマン作曲の原曲は四重唱だったと知ったP氏が「我が意を得たり」とばかりに、重録音で演奏しました。
    Pのテノールは柔らかなレッジェーロ。
    昔聴いた大編成の合唱団による演奏と違い、軽やかで明るい感じの「流浪の民」になりました。             






なお本文中のSPレコードの写真は
http://heirinzi.blogspot.com/2010/11/blog-post_7247.html 齋藤様よりお借りいたしました。








テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 4
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い
かわいい

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(8件)

内 容 ニックネーム/日時
おはようございます!
更新を楽しみに開かせていただきました。
ビクター、耳を傾ける犬。これは私にとって、永遠のレーベルです。やはり子どものとおきから見ておりました。弦楽が多かったですね。蓄音器から流れ出る音楽は何とも言えない味わいでした。

私がお世話になっている教会の牧師先生が、ビクターレコードにいたことがありまして、たまに余談でレコード流通事情などを聞くことがありました。すぐに献身したようですが。

「流浪の民」
実はじっくりと詩を読んだのは、これが初めてで、これまで余り深くそれを考えようとしたこともありませんでした。
ふっと、シューマン自身が、自らのうちに拭いきれぬ漂泊の想いを持っていたのではないか、そんな気がしました。ジプシーの有り様、強かさもあるが、彷徨い歩く中での魂の咆哮を見抜き、それに共感している、そんな風にも思われました。

原詩にある言葉が訳詩では消えていたり、また原詩にはない言葉が訳詩に表れていたりと、他の学問なら「ねつ造?」といわれるところ、しかしその方が名訳であり得たりと、面白いですね。
原詩を超える翻訳にあずかった作家たちは幸運ですね。またその幸運で幸運な道を歩んでいる方もあるかもしれません。逆もありでしょう。

何れ掲載くださった「流浪の民」、ジプシーの方々の有り様と想いとが、つかず離れず激しく重い旋律を伴って鮮やかに浮かび上がります。

このままP氏の四重奏に飛ぶことにいたします。
有難うございました。
bunbun
2010/11/13 10:22
私は昔からジプシー音楽に魅かれるものがありました。情熱をにじませた哀愁の響きに琴線が触れるものがあったのです。
シューマンの「流浪の民」は初めて聴きましたが、軽快な音楽ですね・・・と、私には聴こえてしまいました。ギャロップのような、そして、旅の高揚感と宿りの静けさ。シューマンの憧れが詰まっているのですね。訳詞も美しいですね。
(「詩人の恋」の「美しい五月に」は好きな歌曲です♪)
琳々
2010/11/13 14:08
◇bunbunさん

>ビクター、耳を傾ける犬。

ニッパーという名前の実在した犬だそうですよ。
昔はよくあちこちで陶器のニッパー君を見かけました。
今でも実家の飾棚では、小さなニッパー君が耳を傾けています。

>原詩にある言葉が訳詩では消えていたり、また原詩にはない言葉が訳詩に表れ ていたりと・・・

グールモンの「幻の2行」は、意図されたことではないようですがですが
(確かな根拠があるわけではありません)石倉さんがこのガイベルの詩を翻訳するに当って、あえて切り捨てた言葉、全く違う言葉に置き換えたもの、原詩にはない言葉を加えた部分、などについていろいろな評価があるようですが、石倉さんの念頭にあったことは、「原詩の雰囲気を損なわず、いかに音楽的な日本語に訳すか」という点であったことでしょうし、氏はそれを成し遂げました。
それにしても、このリズム、の美しさ、格調の高さは文語だからこそ、ですよね。
aosta
2010/11/14 03:46
◇琳々さん
 コメントありがとうございます。

>軽快な音楽ですね・・・

Pの声質が明るく柔らかいと言う事も関係していると思いますが、確かに私の記憶の中の曲にくらべると「明るい」んです(笑)。
ビクターのSPでの演奏は、混声合唱で、もっと厚い音でした。LPに比べると、モノラルのSPレコードの音質は、少しくぐもった、というか、こもった感じがしたように思います。テンポのイメージもあるでしょうし。
LPの音を初めて聴いた時は、その磨いたような清明な響きに驚いたものでした。父は、頑固なSP派で、世の中がLP全盛の時代になってもSPしか聴きませんでしたので、私が初めてLPを聞いたのは、高校生になってからでした(笑)。
中学校の音楽鑑賞の時間ではLPだったはずですが、記憶にない(汗)・・・

私もジプシー音楽のテンポやデュナーミクの激しく奔放な変化や、独特なリズムにまず身体が反応します。
情熱的でありながら、哀切な憂愁がありますね。

「詩人の恋」の全曲は、まいど身内の宣伝で恐縮ですが(笑)、 
添付URLからお聴き頂けます<m(__)m>
aosta
URL
2010/11/14 04:16
中学生の頃、合唱部リーダーがたくさんいるクラスが合唱祭で歌っているのを聴いてうらやましく思ったのを覚えています。身震いする曲です。(家人はこういう情念を感じる音楽が苦手だと申しておりますが)
かげっち
2010/11/16 12:42
◇かげっちさん

こんばんは。
コメントありがとうございます。

>身震いする曲です。

身震い・・・もしかしたらこの曲にぴったりの形容詞かもしれません。
暗くざわめくような情念の曲。
確かこの曲も「シューマンの「歌の年」に作曲されていたんでしたよね。
ちょっと前に、一つ山を越えた街にある映画館で「クララ・シューマン 愛の協奏曲」という映画を見てきました。映画はあくまでも映画であり決して「真実」ではないのでしょうが、シューマンの天才と狂気が生々しいまでにリアルに映像化された作品でした。
「詩人の恋」のリリカルな憧れと絶望。
「そして流浪の民」の息苦しく底知れぬ情念。
今まで、シューマンは一部の例外的な曲を除き、あまり聴くことなく過ごしてきた作曲家ですが、ここ最近、彼の音楽を聴いてみたいと思うようになりました。
狂気がその天才に拍車をかけた、とも言えるシューマン。
彼をしてそこまで追い詰めた物が何であったのかは、知り得ない謎ですが、年を重ねることで、受容できる真実もあるように思えます。
私も年を取ったってことでしょうかね(笑)
シューマンの天才も狂気もどんとこい!
aosta
2010/11/16 20:27
この記事を読んで、やっとの思いで解決しました。父の十三回忌を終え、蔵書の目録作りを始めたところですが、額縁に大切に保存されている直筆の書の内容が判読できず、気になっていました。ブログから知識を得、いま判明しました。石倉小三郎氏、
81歳の時の、昭和37年に起筆したシューマンの「流浪の民」のみずからの訳詩でした。
meruchiro
URL
2013/12/05 11:09
◇meruchiroさま

お越しくださいましてありがとうございます。
コメントへお返事が遅くなりまして、申し訳ございませんでした。

お父様の蔵書目録をお作りになられていらっしゃるのですね。お父様が残された書棚には、故人の思い出ばかりでなく、志も一緒に残されているのでしょうね。本を愛されたお父様が大切にしていらした額の内容判読に際し、このささやかな記事が一助となった由、心から嬉しく思います。

そちらのブログをお尋ねしたのですが、残念なことに、添付していただきましたURLが上手く機能していませんようで、たどり着くことができません。
お手数ですが、もう一度リンクをお願いできますでしょうか?
aosta
2013/12/08 09:41

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
「流浪の民」 / シューマン (訳詞:石倉小三郎) 消えがてのうた part 2/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる