秋の日のモーツァルト





透明な秋の日差しがきらきらとこぼれていた午後。

小学校近くの道路を、低学年らしき一団が渡って行った。
たくさんの「横断中」の旗が弾むように踊っていた。
どの子もどの子も、手に手に旗をうち振って、何がそんなに嬉しいのか、
笑いさざめきながら小走りに過ぎて行く。

そうか、嬉しいから、嬉しいのよね。
こんなに素敵な秋の朝。
それだけで心が踊る。どきどきするほど嬉しい。
波のように揺れている旗は、嬉しくてたまらないから。
理由のない喜びは、それだけでぴちぴちと跳ねるようだ。

自動車の中に流れていたのはモーツァルトだった。
軽快なアレグロは子供たちの足取りに似ている。
無邪気な移り気、道化た身振り。
その率直なまでの喜びの発露が、モーツァルトのメロディに重なって一つになった。

心が弾めば、身体もはずむ。
喜びは表現する言葉が見つからないからこそ、身体全体の表現になる。
悲しみとて同じ。
それを表現する言葉を持たないからこそ、幼い子の悲しみは深い。



画像




もしかしたら、モーツァルトの悲しみも同じ。
一見単純だからこそ、深く、寄る辺ないほどに、何ものからも自由だ。
表現のしようもない悲しみの淵で、子供のように笑う。

麗日の秋には、モーツァルトが良く似会う。




    <追記>

    横断歩道の前で車を止めた時に、流れていたのはモーツァルトの「音楽の冗談」でした。
    この曲が作られた背景については何も知らないのですが、
    一般的には当時の音楽家や演奏のあり方を揶揄したものとか、
    モーツァルトの諧謔趣味による作品とされているようです。
    そうした意図的な部分があるにしても、この曲は素敵。
    単純なのに複雑で、気まぐれ。
    目まぐるしい転調や、音の跳躍の中にふと現れる何とも美しい旋律。
    と思えば、いかにもおどけた和音に足元をすくわれます。
    モーツァルトにかかれば、苦々しい現実さえもこんなに美しい。
               
    音楽の冗談 K.522  → http://papalin.yas.mu/W203/M007/




    
    

この記事へのコメント

bunbun
2010年10月09日 15:01
こんにちは!
きのうは、aostaさんの仰るような明るい秋晴れでした。aostaさん方の影響を受けて自分で塗装し、庭に設置したテーブルで、コーヒーを頂きました。同じ理由で今年はモツレクも、バッハ・カンタータとともに随分と聴きました。
 モーツァルトも普通なら表現しようもない悲しみを持ち、それを音で表わしていたのでしょうか。子どもの悲しみが、もし表現もしようがなかったのなら、ほんとうに心が痛みますね。
 知り合いのお母さんに、障害をもったお子さんの育児を真実に為していらっしゃる方があります。それが、底抜けに明るいのです。
 秋はどんなに日が照っていても、落ちている影には濃さがありますね。
これもまた味わいつつ、この秋を生きてみます。
 
2010年10月09日 22:10
◇bunbunさん

コメントありがとうございました。
モーツアルトは語学の達人であったと言われます。母国語はもちろんのこと、仏語、伊語、英語など複数の言語を自在に操ったと聞いています。
けれども、彼の魂の本当に深いところを代弁する言語は音楽以外の何物でもなかったのではないか、と思うのです。人は、言語を獲得し、その言語によって初めて「思考すること」が可能になります。モーツァルトにとっては音楽による思考こそが、彼の魂の表現であったのではないかしら。そしてその「魂」は音楽によって表現されるが故にいつも裸です。言葉によってカモフラージュされることのないそれは、喜びにつけ、悲しみに付け、あまりにも直截です。

>秋はどんなに日が照っていても、落ちている影には濃さがありますね。

秋の日差しは薄く透明です。
にも関わらず、落ちる影は濃い・・・
bunbunさんのこの言葉は「モーツァルト的」なるものを表現してあまりある言葉のように思いました。
かげっち
2010年10月10日 08:43
ごぶさたしております。

「疾走する悲しみ」と言った人がいますが、私は澄み切った秋の空を見ただけで訳もなく悲しくなるので、そんなときにMozartのc-mollのセレナードを思い出します。「えっこれがセレナード??」と思うような凄みのある曲・・・

阪神淡路大震災の只中で中井久夫氏が「精神科医として経験したこと」を書いている本があり、その表紙に無邪気な被災少年の写真が載っています。その笑顔を見ると、ケーゲルシュタット・トリオを思い出します。ケーゲルシュタットというゲーム(玉遊び)がどんなものか知りませんが、それをやりながらさらさらと書いたにしては爽やかに美しく上品な、しかしクラリネット・ヴィオラ・ピアノというユニークな編成(他にはシューマン、ブルッフくらい)、「なぜなんだ!」と叫びたくなる・・・

Mozartは幼少の頃からプロデューサーである父親に連れられて欧州一帯を旅して回ったので、いろいろな言語を覚えたのでしょうね。一箇所に落ち着いて馴染みの友だちと遊べることが子どもにとっていかに大切か、ということを思い出す時、彼の生育環境はどうだったのか・・・?(ねえ、ルソーさん)

この作曲家の魂を表す楽器はこれしかない、という作者がいます。ショパンであればピアノ。ある人は、それはMozartの場合には声だ、と言いました。言語としてだけでなく、非言語的なメッセージも乗せて飛び交う声・・・魔笛やドン・ジョバンニ、フィガロ、言語の底にある感情に耳を傾ければ歌詞を理解できなくとも味わえるのは、そういうことだと思います。
2010年10月10日 22:10
◇かげっちさん
 コメントありがとうございました。

>私は澄み切った秋の空を見ただけで訳もなく悲しくなるので

このお気持は、私にも本当に良く解ります。
春でも、夏でも、まして冬でもない。透き通るような秋には、しんと透き通るような悲しさがありますね。
中也の「一つのメルヘン」にも共通する悲しさかもしれません。
ケーゲルシュタットとはボーリングの前身の九柱戯の事だったかと思います。
何の本だったか、雷は巨人がこの「ケーゲルシュタット」の興じて、ボールを転がす音だ、というような西洋の昔話を読んだ覚えがあります。
モーツァルトのヴィオラには秋を感じさせる憂いがあるように思います。

モーツァルトの魂を表す楽器は声である、という考察には感じるところがありました。例えばあの「夜の女王」のコロラトゥーラは「言語的メッセージ」というより、すでに一つの「情念の磁場」のようなもの、言語による説明を超え、さらにも深化した「意味そのもの」という感じです。引き絞られた弓弦から矢が放たれたような白熱した情念そのものが支配するあのアリアは、確かに「非言語的なメッセージも乗せて飛び交う声」としての楽器だという気がします。
概念を共有する通常の意味においての「言語」を超えて、天上の高みにまで舞い上がる、言葉を超えた言語、すなわち音楽こそがモーツァルトにとっての「最良の言語」であり、この言語によって彼は自由であったのだとも思います。
そして音楽が言語であるならば、やはり彼にとっての「最良の楽器」は声なのかもしれません。
かげっち
2010年10月14日 12:16
ああ、私も「夜の女王」を思い浮かべながら上の文章を書いていたのでした。

秋の澄み切った空で中也と言えば私には「ああ、おまへはいったい何をしてきたのだと・・・」です、プチ鬱病みたいな気分。
2010年10月15日 06:20
◇かげっちさん

コメントをたくさんありがとうございました。
今回使いましたモーツァルトの肖像画は、ご存知のとおり、小林秀雄の「モオツアルト」で論じられている作品です。
私の中では小林秀雄を通じて、モオツアルトと中也がどこかでつながっています。
中也に「玩具の賦」という詩がありました。
モオツアルトは「おもちゃ」について何も語っていないけれど、彼もまた玩具に魅せられ玩具を愛したひとであったように思います。

今日の午前中は「ドン・ジョバンニ」を見てきます。
オペラではなく映画です。
モーツアルトと、ダ・ポンテ、そしてサリエリを巡る物語が楽しみです♪

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