コソボの祈り 「レクイエム」に込められたもの






7月17日、岡谷市カノラホールにおいてコソボフィルハーモニーによる演奏会が開かれました。

オーケストラを率いる柳沢寿男さんは下諏訪町出身。
初来日の四公演の皮切りを地元岡谷市で、という柳沢さんたっての願いが実現したのです。

コソボという戦争の記憶も生々しい国で、音楽を通して平和を願う・・・
言葉にすると、安易な理想主義と間違えられるかもしれません。
けれども実際に現実のコソボで、いまなお癒えぬ闘いの苦しみと痛みを目の当たりにし、
音楽を通じてさらにも深い悲しみを共有した柳沢氏は音楽による民族再生の希望を確信し、
今回来日の運びとなりました。



コンサートは二人のコソボ作曲家による、弦楽と打楽器のための”スピリット・オブ・トラディション”と
弦楽とティンパニーのための”LOTTAPACE”の演奏から始まりました。

作曲家でありピアニストであるバルトン・チベリ氏による”スピリット・オブ・トラデシオン”は
その名前の通り古いアルバニアの民族舞踊のメロディに基づく、8分の7拍子の曲。
細かく刻むティンパニの音は、民族楽器「トゥパン」を模したものだとか。
一見(一聴?)シンプルなメロディーの繰り返しは、分断された民族の分かち難い魂の記憶であるかの如く
寄せては返して、波のように響いてきます。
高揚してゆく音には、身体ごと引き込まれるような求心力がありました。

二曲めに演奏された”LOTTAPACE”は「戦争と平和」を意味するラテン語のタイトル。
作曲はバキ・ヤシャリ氏。
柳沢さんの求めに応じて今回の日本公演のために書き下ろされたという曲です。

ご自分の親族をNATOの空爆で喪ったバキ氏が、深い悲しみと平和への祈りを音楽という形で世に問うた作品です。
緩やかなテンポと長いボウイングの弦の響きで始まった第一楽章の”Lament(哀歌)”は、
やがて脅かすようなテインパニーの連打と、一糸乱れぬ弦が激しくリズムを刻む”WAR DANCE”へと変わっていきます。
民族音楽をモチーフにしたという断片は、怒りと悲しみで喘ぎながら途切れ、また変奏され、
想いは音ととともに、まるで身悶えするかのように激しく捻じれていきます。
完成したのは今年の6月だと言うのに、この曲に対する柳沢さん初めオーケストラメンバーのほとばしる想いがあったればこその完成度、緊張感に溢れた素晴らしい演奏でした。

全四楽章のうち今回演奏されたのは最初の二楽章だけ。
豊かなデュナーミクと、突然の静止を繰り返して終わったこの曲で、「平和」までたどりつくことができなかった私の心は、
行き着く場所が見つからず、しばし放心したままでした。
総勢40人余りの小さなオーケストラのひとりひとりが抱えている悲しみの深さと形が、未だ癒されることのないまま、
演奏の間ずっと血を流し続けている、と感じたから。
作曲者が思い描いた「平和」がどのような音楽として結晶したのか、
今回聴くことが叶わなかった三・四楽章への想いが募ります。




画像




そしてメイン・プログラムは、モーツァルト「レクイエム」二短調。

死者のための安息、神の憐れみを乞い願う祈りに対し、激しい神の怒りとが対称的に繰り返されたあとの
”Lacrimosa”の静謐な美しさ。
モーツァルト自身、迫りくる死の恐怖に怯えながら作曲したと言われるこの「涙の日」の痛切な悲しみと深い祈りは
そのまま今回この曲を演奏するコソボフィル・メンバーの想いであり、
同時に今回の演奏会のために編成された合唱団メンバーが、真摯に共有したいと願った祈りそのものであったと思います。
続く”Domine Jesu”の「アブラハムのフーガ」の哀しいまでに快い調べは、このあとの”Hostias”でも繰り返されます。
旧約聖書の中で神がアブラハムとその末裔に約束した言葉を信じ、約束が果たされることを願うフーガです。

神がアブラハムに与えた約束とは、アブラハムの子孫が海辺の砂のように恵まれること、
約束の地(カナン)の回復されること、そして死してのちの祝福、の三つとされています。

旧ユーゴスラビアの崩壊に伴って、故郷を失い、愛する家族友人を失い、死者の記憶とともに復興の緒に就いたコソボの人々にとって、この「アブラハムの約束」はどれほどまでに痛切な祈りであることでしょう。
練習の際、そして最後のゲネプロの時にも柳沢さんが何回か口にされた言葉があります。

「かつてカトリックだったコソボの人々はその後のオスマントルコの支配によってイスラム教に改宗せざるを得なかった。
現在のオーケストラの団員もみなイスラム教徒だ。
そして僕はばりばり浄土真宗、合唱団のみなさんもほとんど仏教だと思う。
クリスチャンが皆無とも言えるこのメンバーでモーツァルトの「レクイエム」を演奏する、
このことにおおきな意味があると思う。」

宗教によって分断され、宗教による戦いで多くの命が失われている世界を、音楽によって一つにしたい、
それが柳沢さんの夢であり、コソボフィルのメンバーたちの希望であるに違いありません。




画像





今回の演奏会はオーケストラはコソボフィルと日本の演奏家たちとの合同編成。
そして地元諏訪地域で活躍している合唱団と県内各地から個人を募って成立した合唱団は、200人という大所帯。
テノール・パートを歌うP氏は視神経のトラブルが回復せず、未だに運転ができない状態でしたので、
彼が練習に参加するたび送り迎えをした関係で、私も練習のほとんどを間近で聴く機会を得たのですが、
これだけの人数がアンサンブルとしてどこまでまとまるか、初回練習の帰り道では、一抹の不安がよぎっていました。


宗教曲もラテン語も初めて、またオーケストラとあわせるのも初めてというメンバーも少なからずいた、というより、
むしろそうした人の方が多かったかもしれません。
そのメンバーを引っ張っていったのは、柳沢さんの願いを実現したいという合唱団員全員の想いと同時に、
本番の直前まで合唱指揮をして下さった近藤基さんの熱い指導でした。
それぞれの合唱団で、練習を繰り返しての合同練習は回を重ねるにつれて上達し、
本番をひと月後に控え頻度を増した練習では鬼気迫るものがありました。

オーケストラが加わった時点で、練習時のテンポ感に若干ブレーキがかかったことは残念でしたが、
最高の出来だと思った最終練習にも増して、本番での合唱は、素晴らしかった!!
200人の合唱はそのまま大きな音の壁のようになって雪崩れ、退き、声はすでに魂の振動そのものでした。
ステージ上の高揚感はそのまま客席に広がり、客席で増幅した感動で、演奏に更なる熱が加わって、
演奏する側も聴く側も完全に一つになった演奏会でした。
地元であるからこそ、共感も感情移入も容易だったと言えるのかもしれませんが、
地元という利点を考慮してなお、素晴らしい演奏会であったと思います。
これから25日の東京公演まであと2か所。(岐阜・金沢)で演奏会が予定されています。
コソボフィルの真価が問われるのはこれからかもしれません。


「コソボという国の現実、戦争の悲惨、平和の尊さを伝えたい。
そのためにはまず互いが知りあう事。」

柳沢さんが仰ったこの言葉が深く心に残っています。





画像





最後に、これは言わずもがなのことかもしませんが残念に思ったことをいくつか・・・
オーケストラ、合唱団の情熱に比べ、ソリストが浮いてしまった事。
本番前日からの練習参加では、無理な注文だとしても、「レクイエム」の音楽的深度は
祈りの深度にも通じるはずではないかしら。
その意味からすると、ソリストの方たちに音楽への敬虔さ真摯さに欠ける向きがあったのではないかという懸念です。
宗教曲とオペラが混同されたかのような歌い方には首をかしげてしまいます。
特に過剰に感じられたビブラート。宗教曲の場合あまり美しいとは思えません。
ソリストのバランス、という言い方が正しいのか判りませんが
「不思議なラッパ」にしても「ベネディクトウス」にしてもソリストの先走りが目立ったようにも思います。
レクイエムという曲の持つ意味、今回のコンサートのコンセプトを十分に理解しての内容だったとは思えませんでした。
他のメンバーがどれだけ頑張ったかを目の当たりにしているだけに、このことだけは心残りです。




     ☆TV放映のお知らせ

        8月18日(水)19時より
        SBC信越放送で、今回のコンサートをめぐるドキュメンタリーが放映されます。
        スタッフがコソボまで取材に出向いての力作。
        コンサートメインの内容ではありませんが、
        コソボの実状、音楽的環境などを知ることができるかもしれません。
        ご事情の許す方はぜひご覧になって下さい。
        私も楽しみにしています♪





この記事へのコメント

ichi
2010年07月19日 17:50
さすがaostaさん! コンサートの空気感が伝わってくる素晴らしいレポートです。
まずは素直にこのコンサートの成果を知り、その断片でも味わいたかった。というのが率直な気持ちでしたので、ほっと一息というところです。
写真は練習の時のものですか?中央の一番奥のオレンジ色がP氏ですね。どこに注目しているか非常にわかりやすい視点の構図ですが、ここは合唱団の全体像がわかるように横構図で撮って欲しかったですね。相変わらず注文がうるさいですが。
2010年07月19日 18:25
Papalinさんのブログから先に拝見し、aostaさんの感想が気になっていました。
聴いたわけではないのですが、

>宗教曲とオペラが混同されたかのような歌い方には首をかしげてしまいます。
特にビブラートの多用は宗教曲の場合あまり美しいとは思えません。

と言う点は聴かなくてもわかるような気がします。
そういう演奏、とても多いですから。

日本人声楽家の多くは、”声を出すこと”だけで必死な人が多いように思います。
発声法もいろいろあるのですが、音楽にふさわしい発声というものがあると思いますし、声を響かせることを第1に考えているようではまだまだだと思います。
ソリストの歌が浮いているのはある意味当然の結果のようにも思えます。

今Minkowski指揮の「ロ短調ミサ」を聴いているのですが、ソリストが浮くということはないですものね。
どこかが根本的に違うのだと思います。
alex
2010年07月19日 19:04
 コソボ、その名前は、メディアでしか惨状を知らない私でさえ一種の痛みを伴って聞く地名です。瓦礫の街は復興しても、人々の心は未だ大きな傷跡を抱えていることでしょうね・・・
「LOTTAPACE」を私もいつか聴く機会があるでしょうか・・・
P氏がお出になったモーツァルトのレクイエム。
私が歌ったのはもうずいぶん前になりますが、歌っていて一番神に対峙しているというか、渦中(?)にいるような気になるのがモツレクなんです。
asotaさんのおっしゃるとおり、フーガを歌っているうちにリアルタイムで神の業に遭遇し、神に祈りを捧げている気持ちになります。なりふり構わず(声ではありませんよ、あくまで気持ちです:笑)神に向かっていかざるを得ないようになっているのです。そして、ちゃんと平安が用意されいる。
素晴らしい曲のステージを充実感を持って終えられなかったことは、とても残念です。アマチュアだからとかプロだからというのは、ステージにのったら皆同じだと思うのですが、プロにはプロしか表現できない音楽があるはずです。それを伝達してほしいと思うのは当然だと思います。
ソリストには得意にしているレパートリーはあるわけで、それを考えると歌った本人以外にも、今回のステージを作る上で何か事情があったのでしょうかね?・・・・
2010年07月19日 21:37
>その意味からすると、音楽への敬虔さ真摯さに欠ける向きがあったのではないかという懸念です。

なるほど、こういう事だったのですね!!
納得です。

2010年07月20日 07:37
◇ichiさん

コメントありがとうございました。
このブログを書きあげ、どれどれとP氏ブログを見に行ってきましたが、ちょっと過激ですね~こちらと落差がありすぎて、同じコンサートとは思わない人もいるかもしれません(汗)
でもコンサート自体は大成功だったと思います。
カノラ始まって以来と思うほどの拍手は心からのもので感動的でした。
ソリストの問題が霞んでしまうほど、合唱団やオーケストラのメンバーの演奏が素晴らしかったことを考えるとプロとアマチュアの違いについてまた考えてしまいます。音楽に欠ける情熱、という点においてアマチュアはプロを超えるのかもしれません。そしてその情熱が、時として今回のような奇跡をもたらす事もあるのだと、今更ながら思ったことでした。

写真はコンサート当日、ゲネプロでのものです。横構図でステージ全体を撮ったものもあったのですが、P氏の意見に従ってこちらになりました(笑)。
「注文がうるさい」のはichiさんばかりではないようです。
2010年07月20日 07:59
◇Ceciliaさん

ご無沙汰したままでしたのにコメントをありがとうございました
しばらく前までは、宗教曲も大編成の華麗なオーケストラと演奏の悲壮でドラマティックに歌い上げることが普通だったこともありましたね。
でも本来の「レクイエム」を考える時にはそうした過剰な演出は必要ではないという最近の古楽的考察に共感しています。
宗教曲におけるベルカント的発声には違和感を覚えてしまいます。

>音楽にふさわしい発声というものがあると思いますし、声を響かせることを第一に考えているようではまだまだだと思います

きっとその通りなんでしょうね。
この「レクイエム」において、ソリストの歌は天上の声を代弁する至高の歌であるべきではないでしょうか。ソリストは声だけでなく心を響かせなければならないと思います。
2010年07月20日 09:11
◇alexさん

いつもありがとうございます。
言わずもがなのこと書きましたけど、個人的には満足したコンサートでした。
ソリストの部分はないものとして聴いて、それだけで充分なほど素晴らしかった。
アブラハムのフーガは本当に素晴らしく、alexさんがおっしゃるように「神に向かっていかざるを得ない」感動とともに聴くことができました。”Quam olim Abrahae”のフレーズが繰り返し波のように寄せてくるときの震えるような想いは、確かにリアルタイムで神の業に遭遇している時間なのだと思います。
Communioの終わり、この曲の最後で歌われる "Cum Sanctis in aeternum quia pius es" の部分では本当に心が涙にぬれるようでした。
そしてあの最後の音!!モーツァルト以外、誰もこの音にこんなふうに溢れる哀しみと究極の憧れを込めることはできないと思う響きですね。
2010年07月20日 09:23
◇書記さん

こんにちは。
今回はご一緒できなくて本当に残念でした。
重箱の隅をつつかなければ、じゅうぶんすぎるほど素晴らしい演奏会でした。
あえてここでもう一度つつくとすれば、合唱団やオーケストラの高みまでソリストの方たちが到達していなかった、という事になるかもしれません。
技術的なことは良く解りませんが、本来このことが一番大切なことなのではないかしら。
ソリストとはその名前の通り一人で歌う技量に優れた人なのでしょうが、オペラのように存在感を主張するのでなく、合唱の中に溶け込んでなお、天から光が差すように響いてほしい、と思うのは欲張りなのかしらん??
実際、そのように歌う人もいるんですよね。これはやっぱり音楽への敬虔さ、真摯さ、つまりは献身があって初めて到達する高みなのかもしれません。宗教曲の場合、前面に出ようとすればするほど、音楽は浅く希薄になってしまうような気がしました。
ichi
2010年07月20日 12:50
結局今回のことで、一番心に残ったのは、夫婦のありようですかね。バランスって大事です。ぐいぐい引っ張っていく推進力(エンジン)はいわずもがなで、P氏。安定させて走るようにバランスをとっているのがaostaさんなんですね。
bunbun
2010年07月20日 14:48
aostaさん、コンサートの練習の段階から時間を注がれていたのですね。
モーツァルトのレクィエム、思えばじっくりと聞いたことがありませんでした。
コソボで音楽活動していらっしゃる方の存在を知ったときには、なぜにコソボでと思いもしたのですが、だからこそ意味も価値もあるのでしょう。
やはりソリストの存在は重いとおもいますね。ソリストが軽かったなら、その演奏にはかなりの安定を欠くことになるかと思います。しかし関係者、多くの音楽を愛する方々の熱意、意欲が伝わってきました。すばらしいですね。
2010年07月21日 05:38
◇ichiさん

おはようございます。
再コメントありがとうございます。

>夫婦のありようですかね。

彼も私も、特別意識することもなくそのまんまなのですが
ichiさんもご存知の通りP氏が突っ走りすぎるのはいつものことで、急発進、急ブレーキの連続なので、私は安全のためのプロテクターを装着して待機してます(笑)
実際の車の運転はとても丁寧なのに、こと音楽に関するとなると一切外野の思惑は考慮されません。それだけ音楽に対して真剣なのです。そしてそれがP氏。で、私は垂直尾翼・・・?
2010年07月21日 06:03
◇bunbunさん
 おはようございます。

>練習の段階から時間を注がれていたのですね

仮にP氏が自分で運転できたとしても、練習にくっついて行ったかもしれません。音楽が作り上げられていく過程が好きなんです。
形のないものが形となり命を吹き込まれていく感動を彼とともに共有したいと言う想いがあります。他のメンバーの方たちにとっては迷惑でしょうから、普段の練習の時はなるべく目立たないようにしていますが、カノラホールでの練習時では思いっきり特等席に座っていました(笑)。

モーツァルトのレクイエムは、私が初めて意識して聴いた宗教曲です。
1972年録音のベーム、ウイーン・フィルの演奏でしたが、いま聴くとテンポ感や音のボリューム感が最近の演奏とかなり違っているとはいえ、このベームの演奏は私の「モツレク」の原点です。
フォーレのレクイエムと並んで、この曲は私の中で特別な曲。
私は1996年ホグウッドの演奏が好きです。
ソプラノのエマ・カークビーが本当に素晴らしい!!
かげっち
2010年07月21日 12:39
ごぶさたしています。

このオケのことは先日TVで知ったので、わたしの日記(7/3)にも書いてあります。しかし何かで注意を中断されたせいか、今回の公演の予定については耳に残っていませんでした。どうせ遠方なので行けなかったとは思いますが。コソボから来日なさった皆さんの感想を知りたいものです。

P氏のコメントも合わせ拝見しました。実際を聴いていないので論評の妥当性は判断しかねますが、この曲を含めミサ曲の伴奏は何度か経験があるので、書かれているような事態が発生する様子は目に浮かびます。同じような経験があるということです。

他に聴衆からよく聞くのが「暗譜していないなんて情けない」という筋違いの意見です。神様からいただいた言葉であることを示すために楽譜を手に持つ習慣なのに。ピアノ伴奏者だって暗譜することはあり得ないのに。

しかしaostaさんのご報告も合わせ読むと、オケや合唱の燃焼度はきわめて高かったようですね。LOTTAPACEも全曲を聴いてみたいものです。

コソボではないですが、やはり旧ユーゴのクロアチアから来た方と日本でお会いしたとき、戦火の中でもとどまって演奏を続けた大野和士さんのことを、とても賞賛していました。この地域では、和解の絆をとりもつ役割に適しているのが日本人でしょうか、歴史的しがらみがないだけに。
bunbun
2010年07月21日 15:22
しかしaostaさんは、またとないp氏の音楽の理解者ですね。
わたしも作り上げていく過程に臨席したいのですが、そんな贅沢なチャンスは巡ってきそうにありません。
そうですか、1996年ホグウッド、留めておきたく思います。
教えていただき有難うございました。

いつか申しました息子の旅先は諏訪湖方面に8月なそうです。ご迷惑をおかけすることは無いとおもわれますが、何しろaostaさんの近くなので、つい言ってしまった次第でした。
2010年07月21日 22:16
◇かげっちさん

久しぶりのコメント、嬉しく拝見いたしました。
そうですね、そちらからですと、飛行機になりますよね。福岡~松本便を利用するにしても、ちょっと大変です。西日本でもどこかで演奏会があっても良かったですね。

>同じような経験があるということです。

つまりは、今回のようなことは珍しくないと言う事なのでしょうか。
お言葉の通りだとするなら、さびしい限りです。同じような場面が繰り返されると言う事は、ソリスト側のスタンスが何も変わっていないと言う事なのかしら。
P氏がブログに書いていた「アマチュアには"もっと"と、そしてプロには"違う"と言って欲しい。」という言葉に強く共感するものです。
もともと200人規模という合唱は、この曲には大きすぎるとは思います。しかし、地方都市で合唱団員を募ると言う状況を考えると、チャンスは均等にと言う事が前提になりますし、オーディションもありません。歌いたいと言う熱意と、合唱団での実績があれば参加を拒む理由はありません。さらには柳沢さんの地元と言う事から、柳沢さんの意気に感じてぜひにも、と言う方も少なからずいらしたことでしょう。その結果が200人の合唱団になりました。大人数過ぎて合唱がもたつくかもしれないと言う懸念より、それだけ多くの方たちがコソボフィルを、そして柳沢さんを、応援したいと願ったのです。
その結果があの素晴らしい合唱でした。
そうした想いに水を差された、と言うのがP氏の本音だと思います。
2010年07月21日 22:17
◇かげっちさん つづきです。

>神様からいただいた言葉であることを示すために楽譜を手に持つ習慣なのに。

欧米のキリスト教文化圏では常識の事が、日本ではまだまだ認知されていません。
そうした習慣があると言う事実がきちんと伝達される機会も少ないのではないでしょうか。演奏される音楽だけではなく、その音楽の本来の意味というか位置がはっきりと示されないまま、他の音楽と同様のスタンスで聴くことに何の違和感も感じない、と言うのがある意味、日本の宗教音楽の現状かもしれません。
だからと言って神様から頂いた言葉、と認識して演奏される曲を、同じ立場で聴くということに、必ずしもクリスチャンである必要はないように思います。
立場は違え、大いなるものへの畏怖とともに音楽を経験する。
この点において、演奏者も聴衆も全く同じだと思うのです。私が、ブログ本文で書きました「音楽への敬虔さ真摯さに欠ける向きがあった」という言葉にはそんな意味も込めたつもりではあります。
2010年07月21日 22:25
◇bunbunさん

こんばんは。

>そんな贅沢なチャンスは巡ってきそうにありません。

確かにこれは最高の贅沢、と言ってもいいでしょうね。
P氏曰く「aostaはお抱え楽師付きだから・・・」という言葉も冗談半分とは言え、何と言う贅沢でしょう!!多少の気苦労は、この「贅沢」の前では些細な事。
何と言っても「王侯貴族」と同じですもの(笑)

息子さんは8月に諏訪にいらっしゃるのですか。
ご興味のあることなどお知らせくだされば、喜んで頂けるルートを提案できるかもしれません=^_^=
2010年07月22日 06:51
◇bunbunさん

先月、旧「消えがてのうた」のゴーギャンにコメントを頂いておりましたのに、お返事を差し上げないままで済みませんでした。
今朝気がつきまして、遅ればせながらのお返事を書きこみました
かげっち
2010年07月22日 12:49
aostaさん、応答ありがとうございました。

似た意味でサバリッシュさんも指揮台の上にいつもスコアを置いていたそうです。暗譜して指揮をするのですが、あくまで「これはモーツァルトが書いた曲だ」などという経緯を表すために、表紙を上にしたままページを開かず、しかしスコアは目の前に置く、これが彼の音楽姿勢だと聞いて深く共感しました。
bunbun
2010年07月22日 12:55
aostaさん、お教え頂いたホグウッド、やはり気になり手持ちを見ましたところ、あるのはヴァイオリン協奏曲3曲。モーツァルト交響曲3曲で何れもエンシェント室内管弦楽団とです。それでも共感できるところは得られるかと思いますので、とにかくあるものを聴いてみることにしました。ほんとうはレクィエムならいいのですが。

息子は歴史は興味が薄いかもしれません。残念ながら。旅は始めたばかりで、おそらく初心者コースで事足りるのではと思っています。また何かの機会にはお願いしたく思います。ご親切ありがとうございます。

以前に書かれたものも、たまにお邪魔しています。もし今度書きましたときには、こちらで書いたことをお知らせいたします。コメント有難うございました。
2010年07月22日 17:17
◇かげっちさん

ありがとうございます。
昨夜は、7時過ぎまで仕事をして家に帰ったのが8時過ぎ。それから大急ぎでお夕飯の支度をして・・・ワインを飲みました。仕事しながらなぜか今夜はワインが飲みたいってずっと思っていたんです(笑)1000円ちょっとの赤でしたが、疲れてお腹が空いて思わず飲みすぎました。(って二人で一本も空かなかったのですが)で、ほろ酔い気分で、一気にがぁっと!!お返事書きました。今朝になって読み返してみたらちょっと変かも(汗)。
お許しください

サヴァリッシュ、昔N響アワーでよく聴きました。懐かしいです。そのあとはオットマール・ズイートナー氏だったかな?レコードも思う様に買えない中学生時代、音楽を「見る」という機会に毎回胸をドキドキさせてNHKにチャンネルを合わせていたものでした。
端正で、誠実な音楽でしたね。後年、サヴァリッシュのレコードではメンデルスゾーンの「エリア」にひどく感動したことがあります。シューマンの演奏では定評があった人のようですが、当時はあまりロマン派に関心がなく、聴いた記憶がありません。

>サバリッシュさんも指揮台の上にいつもスコアを置いていたそうです。

このお話は初めてです。テレビで見ていてもそれとわかったのかもしれませんが当時はそうした細かな神経を持って聴いたり見たりという事がなく、今思えば残念なことをしました。
2010年07月22日 17:39
◇bunbunさん

再コメントありがとうございます。
今日も暑いですね。あれだけ毎日雨が降ったあとは、連日のカンカン照りです。
梅雨の前に丹精した庭も雑草だけが繁茂し再びジャングルと化しています(哀)。

ホグウッドとくればやはりエンシェント室内管弦楽団ですね(*^^)v
今日はコープマンのCDでレクイエムを聴きましたが、オーケストラの金管、それもトランペットの音がどうにも気になって仕方ありません。P氏曰く「あの時代のトランペットにはバルブはついていないから、ほとんど打楽器と同じ感覚だよね・・・」
トランペットが打楽器!?
私には、全くの初耳でしたが、バルブがなければ旋律は演奏できないでしょうし、確かにその意味では、打楽器的な響きと言えるかもしれません。古楽の申し子、コープマンならではのトランペットの扱いかもしれないと妙に感心してしまいました。

息子さん、信州での名残りの夏を存分に楽しまれますように。ただ、万が一花火をご覧になるおつもりでしたら、地元の情報が一番ですから、何かお役にたてることもあるかと思います。
その時にはどうぞお気軽に連絡下さい♪
bunbun
2010年07月22日 20:23
aostaさん、今聞いたところ、やっぱり息子の主な目的は花火でした。それが、地元出身の会社の同僚の誘いだったようです。本人企画と思いこんでいたのですが。
ご心配いただき有難うございました。
ただいまから例の曲、一曲でも聴くつもりです。
2010年07月23日 05:45
◇bunbunさん

やっぱり花火でしたか。
地元出身の方の発案とあれば、安心ですね。
諏訪湖の花火大会、身びいきもあるでしょうが日本一だと思っています。
きて下さった方たちが異口同音に「本当に素晴らしかった!!」と言って下さるのが何よりも嬉しい「地元民」です(笑)。

こちらは夕方からCDの音も聞えないくらい、ものすごい夕立になりました。
雨が上がった後は涼しい風が吹いてほっとしますね。
いかにもそれらしい、夏の夕べでした。
2010年07月25日 22:05
ご無沙汰しております。
今、Papalinさんのブログにいっぱい書いてきました。
で、aostaさんがどんな風に演奏会を聴いていらっしゃったのか、読ませていただいて、ああ、やっぱり素晴らしい演奏だったのだと、感じられます。
aostaさんのお書きになる演奏の様子は、本当にその場にいるような感さえあります。
コソボの問題、宗教問題、難しいですね。一口に解決は出来ないでしょうね。

ソリストの問題も、大きな問題ですね。
Papalinさんのところに、書きましたが、やはりそのソリストを手配した方が、問題だと思います。これもなかなか難しい問題ですね。
2010年07月26日 06:01
◇沙羅さん

おはようございます。
久しぶりにお目にかかれて(?)嬉しくなりました♪
コソボ、改めて地図を見てしまいました。長い間歴史翻弄され争いの火種が絶えることなかったバルカン。民族と宗教を超えて、もう一度音楽で繋がりたい、と言うのが柳沢さんの夢だそうです。場合によっては自らの命の危険さえ顧みず、現地で日夜努力されているとのこと、応援したいと思うのは必ずしも「地元」だからという理由だけではないと思います。
今回このコンサートに参加した合唱の皆さんは本当に素晴らしかったと思います。
P氏のブログにありました、「オケとソリストを後ろの合唱団が支えている」と言われた沙羅さんのご経験を伺い、プロと呼ばれる方たちが音楽をすることの意味をどのように考えていらっしゃるのか、その一端を知らされたような気がしました。
もちろん全部ではないでしょうが、一部にはそうした方もいるのだと思うと残念でなりません。合唱と、ソロ、そのどちらも「音楽」に必要不可欠のものであり、どちらかが一方的にどちらかを支えると言う事はないように思います。比べて見て優劣を付けるものでもないでしょう。合唱部分で打ちひしがれ、ソロの部分で慰められる。当然その反対の場面もあるでしょう。合唱とソロはお互いに寄り添って一つの音楽をつくりあげていく物、ソロとは言え、アンサンブルとして調和していなければ、音楽的美しさ表現殻はほど遠いものになってしまうと思います。

手配した人が問題・・・
部外者があだややおろそかなことは申せまんが、音楽の世界も同じ人の社会、理想だけではままならぬ事情や、さまざまなしがらみがあるのかもしれませんね。

カナカナ
2010年12月20日 02:35
SBCドキュメンタリーをたまたま拝見し、コンサートの事を知りました。
検索したらこちらのブログにたどり着きました。
知っていたら是非聞いてみたかった演奏です。
来年、松本で国連軍縮会議があります。
松本ではいろんなイベントを企画中ですが
このコンサートも世界に向けて発信できたら素晴らしいと感じました。
指揮者の柳澤さんの親としての気持や「魂の叫び」という言葉が
印象的でした。音楽は違いを退け平和に貢献できると思いました。
2010年12月20日 06:00
◇カナカナさん

初めまして。ようこそおいで下さいました。
SBCのドキュメンタリーをご覧になって検索されたとのこと、ありがとうございます。私は音楽を聴くたび、この深い感動で魂を揺り動かす「音楽」とは一体何なのだろうかと考えます。言葉で訴えるわけではないのに、喜びや悲しみ、怒りや慰めと言った感情が心のひだをふるわせていきます。言葉では表現できない想いを音楽はやすやすと私たちに共有させてくれます。言葉は人を傷つけますけれど、音楽で傷つく人はいません。柳沢さんが民族の絆をもう一度確かめたいと願い、平和を祈るそのお気持も音楽の力があったればこそ、遠い異国の地で受け入れられたのではないかと思います。

松本で国連軍縮会議が行われることは初めて知りました。
「楽都」を自認する松本が、音楽を通じて世界に平和を発信できたらどんなに素晴らしいでしょう!松本は以前住んでいたこともあり、大好きな街です。昨日も一日松本に出かけておりました(笑)。
気ままなブログですが、またお立ち寄りください。

この記事へのトラックバック