「マリア・カラスという生きかた」アン・エドワーズ/岸 純信



最後のページを読み終わって本を閉じる音が心に重かった。
最初の1行から、憑かれたように読みとおしたのは、あのマリア・カラスの物語。


不世出の歌姫、マリア・カラス。
栄光と称賛、誤解と中傷の中で、最後まで自分を偽らず、自分を曲げることなかった稀有な魂。
絶えず人々の注目を集め、羨望されるまでの成功を手にしながら、彼女はいつも孤独感に苛まれていた。



「どうして私はこんなにも孤独なのかしら?」
マリアは親しい友人の一人にこう尋ねた。
「あら、マリア、あなたはめったに一人ぼっちにはならないじゃない。」とその友人は答えた。
「ああ、そうね、ここではそうだわ。 あそこでも、そのとおりね。
でもね、ここでは(彼女は手首を交差させ、長い指を、また若々しくなった胸の上で広げてから言った)
ここでは一人ぼっちなのよ。」




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1923年、決して豊かとはいえないギリシャ移民の娘としてニューヨークで生まれたマリアは、男の子を望んでいた母リッツァにとって、いないも同然の子であった。
母親の愛情と関心は長女のジャッキーに集中し、幼い彼女は顧みられることのない子供だった。
しかしマリアが7歳の時、その音楽的才能に気がついたリッツァは、マリアを歌手として世に送り出すことに夢中になり、ついには故国ギリシャで専門的な音楽教育を受けさせるべく、娘二人を連れてギリシャへの帰国を敢行する。
こうして13歳のマリアは、生まれ育った懐かしい故国と、優しかった父親から引き離され、ひたすら音楽を学ぶだけの毎日を送ることになる。
アテネは何もかもがふるさとニューヨークと異なっていた。
母親にとっては故郷であっても、彼女にとっては全くの異国にあって、親しい友達にも恵まれなかったマリアは、音楽に没頭することでしばし孤独を忘れ、ひたすら「食べること」で精神的飢餓を満たすことになる。
彼女を一生悩ませ、その若い日の大きなコンプレックスとなっていた肥満は、こうした摂食障害によるものであった。


「私の興味 ー ひょっとしたら人生で唯一の興味は ー 音楽でした。」


しかしマリアはこのような弧絶感の中でも、すでに自分がプロのオペラ歌手として成功することを疑わなかった。
そればかりか、自分が身を置きたいところで至高の存在となることを願い、そのためにはどんな困難をも克服する覚悟があった。
そしてマリアは、すでに幻となっていたドラマティック・コロラトゥーラのソプラノとしてそれを実際に成し遂げたのだった。


マリアは「高音をドラマティックに歌い、単なる装飾としてでも、小鳥のさえずりのような声を出す能力を披露するためでもなく、それらの高音につけられた歌詞の意味を強調して、物語の劇性に音を結びつけた初めてのソプラノ」だった


どんなに有名になっても、彼女は、リハーサルには誰よりも早く顔を出し、最後までその場にいた。
何度も歌いこんで、完全に自分のものになっている曲であっても、必ずスコアの隅々まで目を通し、指揮者の一言一句に耳を傾けるという姿勢は、世界的名声を勝ち取った後も変わらなかったという。
マリア・カラスという器を完全に空っぽにして、音楽に奉仕し、音楽に対して完全無私であったこの資質こそが、彼女が演じるすべての役柄になりきることを可能にしたことを私は疑わない。

天性の歌声、広い声域、音楽的感受性の深さとその完全な表現を可能にする演技力、比類ない集中力・・・
これらのどれか一つが欠けたとしても、今私たちが知っているマリア・カラスは存在しなかっただろう。
加えて彼女は努力を惜しむことを知らなかった。
マリアが目指したものは、だれかのもと比較して優劣を付けるような相対的なものではなく、彼女自身でしか是非を付けることができない、ある種絶対的な音楽の高み。
マリアはたった一人でそこに立つことを選んだ。
頼る人はどこにもいない、喜び、哀しみ、そして苦しみでさえ誰とも共有できない絶対的な孤独が支配する場所。
その場所こそが、彼女の場所だった。

一人で夜の長い時間を過ごすことを怖がったというマリア。
その心の奥深くには、しんしんと凍りついてゆくような孤独感があったに違いない。
「神に選ばれた歌姫」は孤高であらねばならなかった。
いや、その壮絶なまでの孤高に耐える覚悟があったからこそ「選ばれた」のかもしれない。
マリアの「孤独」こそが彼女の芸術の”養母”であり、彼女の音楽の深化に必要な導き手であったのではないか。



しかしそれゆえにこそ、音楽の磁場から束の間解放されるとき、彼女は愛を求めた。
その中で安らぎ、何も怖れるものもなく、あるがままの自分を受け入れ、認めてくれる愛を。
マリアの言う、シンプルで「簡単な」愛。
その愛はどんなにマリアから遠かったことか・・・



そして彼女が愛した男たち・・・
彼らについては次回に譲ろう。




                          ☆太字部分は、音楽之友社「マリア・カラスという生きかた」より 引用しました。





この記事へのコメント

nosanoa1970
2009年12月07日 10:27
小生はこの本を読んでいませんが、「カラス」といってすぐに想い浮かべるのは、映画「マディソン郡の橋」の中で、女性主人公がラジオで聴く音楽。
それがカラスの歌う「清らかな女神よ:カスタ・ディーヴァでした。
ベッリーニのオペラ「ノルマ」の中の曲です。

ノルマはケルト・・・ドルイド教の巫女、相手は敵対するキリスト教徒のローマ人。
異教徒同士の恋の話、つまり報われない愛の話なのですが、カラスはこの歌を歌う時、なにを思っていたたのでしょう。

その女性主人公がその後展開する「愛」のドラマと、お話を聞いた「カラス」がだぶってしまいました。

「清き女神、あなたの銀色の光は
この聖なる老木を洗い清めてくださる
どうぞ、そのかげりない明るい面を、
私たちにもお見せください。
どうぞ、この燃える心を、
人々の興奮を、やわらげて下さい。 
天を治めるそのこころよい安らぎで、
この地上をもつつんで下さい。」
bunbun
2009年12月08日 21:07
aostaさん、こんばんは。
30分ばかりネットでマリア・カラスを聴きました。驚いたことに、コレクションにカラスが無かったのです。TVのドキュメンタリーで15分ほど見たのと、ネットの「トスカ」、ラジオで聴いたことがあるだけというお粗末さです。
TVではオナシスがジャクリーヌと結婚した場面。オナシスの野望の深さ、地上に名を記そうとの貪欲さ。そして彼女の痛ましさ。
カラスの声には聖霊による響きは聞こえてきません。ヤノヴィッツにはそれがあります。私の聞分けは怪しいのですが。しかし劇場型としてはカラスがより相応しく、スケールが大きいという感じがします。やはり凄いです。どちらも素晴らしい才能ですね。仰るとおり、比べるものではないのでしょう。
aostaさんの記事を学び、秀でた才能、可能性が認められ自覚される場合には、そのためには何をも譲らない、それにすべてを賭ける人生を選び取ってゆくものであろうと理解しました。となればそれ以外の多くのもの、たとえば平凡なしかし尊い幸せも失ってしまうことも多々あり得るのでしょう。そしてその分だけ傷つくことに。
彼女の男性遍歴は、安住の地を求めつづけるのに似ていなくもない。最終的に絶対的な庇護者として、オナシスを偶像化したのかとも。カラスが、永遠の父親を求め続けていたというaostaさんのお考えに、わたしは賛成です。
個人的には、異性は、主人以外は、ついに形而上の存在、想像から生み出された実在のない産物で終わりそうです。わたしに然るべき魅力と美貌がなかったことも幸いし、いまは絶対的な庇護者に眼が開かれました。恋は瞬発力、しかし神のたもう霊なる力は日々に己を生かし新しくする。永遠であることを思います。
aostaさんのブログ、コメンテーターにも教えられることが多くありますね。
有難うございました。
2009年12月10日 08:03
◇noanoaさん

おはようございます。
お返事が遅くなりまして申し訳ありません。
noanoaさんがこの記事をお読みいただいた時点では、「その2」としての後半も一緒に公開しましたが、ちょっと長すぎるようにも思い、改めて二つに分けてアップすることにしましたので、御了解ください。

「マディソン郡の橋」、大ヒットした映画なのに、とうとう見る機会がありませんでした。というか、イースト・ウッドはダーティ・ハリーからのファンなのですが実はメリル・ストリープと言う女優さんがちょっと苦手で(笑)。

私にとってもカラスと言えばやはり「ノルマ」です。
「清らかな女神よ」の、あの素晴らしいレガート!!
長い間忘れ去られていたこのオペラはカラスのためにあったと言っても過言ではないかもしれませんね。

敵国ローマの男を愛したノルマは、すでに彼との間に子供まで設けています。
ドルイドの神聖な巫女として、母として、ローマとの戦いはなんとしても防がなくてはならない・・・・
「巫女」としての冷静で理性的なノルマと母であり、恋する女としてのノルマの葛藤。トスカにしても「引き裂かれる恋」の物語でしたね。
演じる役柄に完全に没頭したというマリア。
マリアの想いは演じた役に重なっていたかもしれません。

「マリア・カラスといういき方」。
豊富な資料に基づき、綿密な考証を経た力作と思います。
訳もこなれて読みやすく、写真が多いことも嬉しいです。
男性遍歴につては何かとスキャンダラスなイメージが付きまといこと多いカラスですが、それについてもニュートラルな視点で書かれています。
むしろ私の個人的な思い入れのほうが強いかも知れませんが、それにつきましては個人的なオマージュと言う事で(笑)。
2009年12月10日 08:03
◇bunbunさん

おはようございます。
ヤノヴィッツ、カラスとは対照的なソプラノかもしれませんね。
リリカルで透き通るような彼女のソプラノは、確かにbunbunさんがおっしゃるように聖霊的というか、天使のような、と言った形容がふさわしいかもしれません。
カラスの歌声は、(もし声と言うものに実態があるならば)切れば血の出るような生身の声のように思います。私はbunbunさんとは反対にヤノヴィッツのオペラはほとんど知らないのですが、ドイツ・オペラとイタリア・オペラは内容が、というか、表現しようとするものがちょっと違うような気がいたします。
ドイツ・オペラがいくつかの例外を除いて「形而上的」であるのに対しイタリア・オペラは「人間の物語」と言った感じがありませんか?
その意味でもそしてヤノヴィッツはドイツ的であり、カラスはイタリア的と言えるかもしれません。いずれにせよ比べるべきものではありませんね。
ただ、演技力、と言う点においては、カラスに比肩する演技力を持った歌手はかつてもいなかったでしょうし、今もいないと思っています。
CDなどの音源はあまたありますが、カラスの映像が少ないことは、何とも残念なことです。
bunbun
2009年12月10日 17:00
わたしきょうもマリア・カラスの声質のことを考えていたのですが、ドラマそのもの、悲劇あり喜劇ありの人生をそのままに生きたからこその声、とこう結論(するのは浅薄でしょうが)しました。それが、まあ、
>切れば血の出るような生身の声
これです。ほんとうに。オペラは、アリア程度で、通しでじっくり聴いてはいませんが、イタリアオペラの見解にはなるほどと納得。
オペラに興味が湧いてきましたが、如何せん……
当地では、このシーズン、オペラの講座も開かれているのですが、出かけるのが気持的になかなか大変。家族が反対するわけではないのですが、自分のこの旧弊さを超えられません。
お話をする感じで、こうしてお聞きできるのは、とても楽しいです。
また宜しくお願いいたします。
それではただいまから夕食の支度です。お陰様で楽しい気分で包丁を握れそうです。

2009年12月11日 05:29
◇bunbunさん

おはようございます。

私が初めて見たオペラはドイツオペラの印象は、ただただ暗く重いと言う印象でした。音楽も全く楽しめず、オペラは苦手、と決め込んでいたのですが今では機会があればオペラを見に行きます。(もっぱらイタリア・オペラが専門ですが)
近くのコンサート・ホールで毎年プラハ室内歌劇場によるオペラが企画されます。今年は「アイーダ」でした。

オペラの講座、せっかくの機会ですから、気が向いたときだけでも足を運ばれたらいかがですか?新しい出会いがあるかもしれません。
出あうのが人であっても音楽であっても素敵な経験になるのではないでしょうか。

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