消えがてのうた part 2

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zoom RSS  「マタイ受難曲」について思うこと

<<   作成日時 : 2009/09/03 23:16   >>

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もう三か月近く前、6月20日のお話です。

前から来客予定のあったこの日、先方の都合で急遽キャンセルとなりました。
突然降ってわいたような「何の予定もない休日」です。
さて、何をしようかしら、と思案する間もなく、「マタイを聴きに行こう!!」という夫の一声で即決。
長野市のお隣、須坂のメセナホールでの「マタイ受難曲」演奏会です。
かろうじてチケットを入手することが出来た事はまさに僥倖でした。

今回の演奏会はバッハのオリジナル・スコアを忠実に再現した初めての試み。
独唱・合唱含め8人プラス3人、ソリストが合唱部分も歌うという極めて小編成の演奏会です。
この編成ですと、テノールに至っては最初から最後まで「出ずっぱり」で歌わなければなりません。
う〜ん。まさに体力勝負!!
指揮はジョシュア・リフキン。
彼が率いるケンブリッジ・コンツエントウスの「第一グループ」と、JCBの桐山健志さんを中心とする「くにたちiBACHコレギウム」の「第二グループ」による演奏です。
実を言えば、浅学な私はリフキンという名前を聴くのは今回が初めてでしたが、指揮だけでなく、ピアニスト、チェンバロ奏者として、またバッハ研究家として知られる方なのですね。

舞台右手に第一グループのソリストたち。
左には第二グループ。
中央にはこれまたふたつのセクションに分かれた管弦アンサンブル。

登場人物の相克する想いを吐露するかのような第一グループのアリアと、ドラマから少し距離を置いた群衆の声を現す第二グループとの掛け合いのようなやり取りはバッハの独創だということです。少人数による編成とこの舞台設定は音楽による対話として、この曲に深い奥行きと臨場感を与えていたように思います。



画像

『ゴルゴファの夕べ / キリストの埋葬準備』 ヴァシリイ・ペトロヴィチ・ヴェレシャギン(1835 〜 1909)



今回の演奏を聴いて感じたこと、思ったことを少し・・・

「マタイ受難曲」は新約聖書の「マタイによる福音書」26節から27節を元にした最後の晩餐前後から始まります。
より形而上学的ともいえる「ヨハネ受難曲」に対して、個々人の内的独白とも言うべきアリアに大きな比重が置かれているマタイは、一人一人の心の声、内なる葛藤のドラマと言ってもいいかもしれません。
一方、ヨハネ受難曲は、キリストの受難・死を経て復活の栄光を予感させる壮大で晴れやかなコラールで終わっています。美しく輝きに満ちたおおらかで素晴らしい、「大団円」とも言えるコラールです。
このコラールが象徴しているように、「ヨハネ受難曲」は、キリストの受難と死、そして栄光に満ちた復活によって預言が成就するという、予定調和に満ちた展開になっています。

それに対し復活の喜びを予感させることのないままの「キリストの死」と「神の沈黙」で終わる「マタイ」。
底知れぬ沈黙の深さ、罪なき者の不条理な死は、答えを与えられぬまま絶望的な痛みとなって、信じる信じないの壁を越え、聴く者すべての心の奥深くに鋭いくさびとなってを打ち込まれます。
キリストの死を、全人類のための「贖(あがな)い」と受け取るか否かは別として、多くの人がその意味を問わざるを得ないほど、その死には重く激しく、迫るものがあります。
取り残された弟子たちや母マリアが打ちのめされた苦しみ、茫然自失する絶望の深さは、それゆえに、より普遍的なものとして言葉や宗教を超えて共感されるのではないでしょうか。
キリストが、全身全霊、人々の救いのために死を目指して生きたという事実にのみ光を当てた「マタイ受難曲」は、すべての人間に、根源に迫る問いを投げかけてきます。

そう考えると、自他共に認める日本の古楽の第一人者であり、内外で活躍する音楽家のお一人が仰られている
「信仰なくしてバッハを理解する事は不可能。」という言葉(春秋社刊「バッハからの贈りもの」)に、私はどうしても同意しかねるものがあるのです。
私はバッハの音楽がクリスチャンだけのものとは思っていません。
バッハの音楽を聴くとき、信仰とは関係なく、至高の存在の前に頭(こうべ)を垂れ、宗教的敬虔に導かれたという人は少なからずいらっしゃるはずです。
聖書的な解釈とは別のところでも、神を感じて震える魂があります。
神を感じる心に「説明」は必ずしも必要なものではありません。
その意味で「説明以前」のバッハの音楽は、確かに私たちへの言葉を超えた「贈りもの」なのだと思うのです。



画像

アンゲラン・カルトン「アヴィニョンのピエタ」


「すべて道行く人よ
あなたがたはなんとも思わないのか。
主がその激しい怒りの日にわたしを悩まして
わたしにくだされた苦しみのような苦しみが
また世にあるだろうか、尋ねて見よ。」
(旧約聖書「哀歌」第1章12節)





関連ブログ
  「柳田邦男とマタイ受難曲」       → http://follia.at.webry.info/200704/article_4.html
  「.S.バッハ『ミサ曲ロ短調」BWV232」  → http://follia.at.webry.info/200702/article_6.html






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内 容 ニックネーム/日時
言葉もありません。絵画の選択もキリストの十字架を悼むという信仰の根源的なところから描かれた宗教画を選んでいらっしゃいます。
私、ヨハネ受難曲は最後まで通して聴いたことがありません。音楽は好きなものを繰り返し聴いているのです。ですからCDはあっても、まだ聴いていないものがほとんどです。ヨハネ、マタイともに聴いてこれだけ得心のゆく感想を述べられ近頃はこのような心構えも忘れておりました。aostaさんの知の蔵の凄さがわかります。
bunbun
2009/09/04 00:55
>「信仰なくしてバッハを理解する事は不可能。」

難しい命題です。色々な人が繰り返し繰り返し論を重ねてきています。
私個人はキリスト者となったことで、バッハが音楽に表わした
キリスト(教)の真実を感じることを避けずに済むようになりました。

川端純四郎氏の『J.S.バッハ―時代を超えたカントール』には、
キリスト教の宗教音楽は信仰なしでも理解可能とあります。
その理由は二つ。
一つは、宗教音楽の主題は「イエスの愛」であって、罪人であり
孤独な人間が赦しと愛を必要としているのは共通であるということ。
もう一つは、「信仰のある人」など存在しないということ。
信仰は、車やパソコンのような持ち物ではなく、人間そのものであり、
各自の日々の決断である。信仰を持って聴くなどというのは不可能。
キリスト者もそうでない人もまったく同じ立場で聴いているのだとの
ことです。

信仰に対する考えや感じ方がひとそれぞれだとしたら、この命題に
対する答えもまた、それぞれの人が自分自身で答を出さなければ
ならないのかもしれませんね。
Tenor1966
2009/09/04 11:03
またしても深遠な問いかけ・・aostaさんの問いは、いつも本質的な問題を突いているような気がします。

バッハが彼なりの信仰に基づいて作曲したことは事実なので、近い信仰を共有しているほうが彼の音楽を理解しやすい、という可能性はありますね。しかしどのような音楽の場合にも、作者の個人的な思いを離れたところで聴かれ、感銘を与え、人を動かす可能性はあるでしょう。それも否定できません。

川端氏の本を私は読んでいませんが(Tenon1966さん、ありがとうございます)音楽を離れて考えると、神の助けなしに人は自力で信仰に到達できないということも、キリスト教的には言えるわけなので、「私は信仰を持ってバッハを聴いている」と言い得る人は誰か?と問われると、胸を張って肯定できる人はいないということになってしまいまねません。

でも、話を戻すと、聖書がキリストを信じていない人に感銘を与えることはあるでしょうが、信じている人の読み方とは異なる部分があるのも当然だと思います。同じように、バッハの聴き方も異なってくるでしょう。問題は「信仰のない人には聴いてもわからない」と言わんばかりの、人を裁くような言い方なのではありますまいか。
かげっち
2009/09/04 12:41
追伸です。

聖書と言えばラテン語だった時代、多くの人々は目で絵画やステンドグラスを見てキリストを理解しようとしていました。ドイツの人なら誰でもわかるドイツ語で聖書の言葉を聞ける時代になり、それをさらにバッハが耳慣れた音楽に乗せて聴かせてくれた時、人々は新鮮な思いで耳を傾けたのではないでしょうか。私たちはバッハの音楽の歌詞にどんな思いを寄せているか・・・?
かげっち
2009/09/04 12:51
aostaさん、まるで「マタイ受難曲」を聴いているような文章と挿入絵です。私などは感嘆以外のなにものもありません。

>一方、ヨハネ受難曲は、キリストの受難・死を経て復活の栄光を予感させる壮  大で晴れやかなコラールで終わっています。

あのコラールは確かに神の栄光のコラールですね。
そして「われら涙流してひざまずき」のマタイは、イエスキリストの死を悼む慟哭のコラール。
友人達の中で、どちらかというとマタイの方が好きとかヨハネの方が好きという話しになることがありますが、この違いだったのだと今教えていただきました。

>私はバッハの音楽がクリスチャンだけのものとは思っていません。

私もそう思います。音楽に込められたメッセージというのは、解釈ではなく感覚であり、だからこそ多くの人達に感動を与えるのだと思います。
ただ、私事ですがバッハをはじめ宗教曲を歌う場合、洗礼を受ける前と受けた後とでは異なる感覚がありました。歌っている時に身体の芯から湧き上がる神様への感謝と祈らずにはいられない思いです。
alex
2009/09/04 19:39
こんばんは。
何時もコメントいただいてありがとうございます。
私も是非コメントをと思っていましたが、この件に関して無知識でした。
私なりに理解しようと勉強しましたが追いつきません。
次の機会にまたコメントさせていただきます。
今回は何もコメントできなくてすみません。
HT
2009/09/05 02:36
aostaさん
バッハを好きな人ならば、バッハがどんな人なのか、愛が深まれば深まるほど、少なくとも伝記なり、作品解説の本位は手元に持って、一歩でもその人に近づきたいと思う筈です。バッハその人を知るという敬愛が嵩じれば、当然、そうなって行くのが自然の成り行きです。
クリスチャンでないと、本当にバッハを理解出来ない?Mr.M.KさんとMs.H.Kさんの対談を読むと、確かにそんなふうに曲解されても仕方のないような言い方をしておられますよね。
それならば、モーッアルトのレクイエムも、ベートーヴェンのミサ・ソレニムスも、同じようにキリスト教信者以外の方たちは、まっとうに理解することは不可能だと言われたことにもなってしまいます。第九など、あんなに大勢の人々が合唱に加わって心から歌っているのにあれはハイネの詩だから大丈夫?

音楽の根源は感動です。赤ちゃんを見れば、それはどなたにも一目瞭然に分ります。妄言かも知れませんが、理屈を言っておられるのはご自分ではないでしょうか?
リフキンのマタイ東京でもあったのですが、残念ながら聞けませんでした。彼が30年ほど前に打ち出した新説が音楽界を震撼させて以来バッハ受容がオリジナル回帰での演奏になって来ているようですが、バッハはアルファにしてオメガ、姿がどのように変わろうが不動!びくともしないところが凄いところです。
ゆっくり聞けるのは次はいつになるのやら・・・。
sonnet
2009/09/05 17:06
M.Sでしたね。論語に「子の曰わ、過ちて改めざる、是れを過ちと謂う」(笑)
sonnet
2009/09/05 17:28
◇bunbunさん、Tenorさん、かげっちさん、alexさん、HTさん、sonnetさん

コメントありがとうございました。
この週末ちょっと忙しくしております。
片手間に御返事できる内容ではないと思いますので、勝手ではありますが、もうしばらくお待ちくださいm(__)m
aosta
2009/09/06 07:06
>「信仰なくしてバッハを理解する事は不可能。」

これに対する見解は、Tenor1966さんのコメントとほぼ同じです。
コレギウムジャパンのトップの言葉として、何とも理解しがたい。
彼は「非クリスチャンには、キリスト教の知識も不要である。」
ということも言っていました。
こういう考え方の人とは、私は一緒に音楽などできません。
音楽云々の前に、ノーサンキューですね。
Stanesby
2009/09/06 07:29
☆aostaさん、sonnetさん、Stanesbyさん、alexさん、Tenor1966さん、bunbunさん

いくつか思い出したこと、思ったことを補足します。

「聖書はいつ読んでもよいものだが、礼拝の中で読むときにその良さが最もよく理解できる」と言った方がいます。もちろんキリスト教信仰を持つ人に対して言った言葉ですが、信者としては納得しました。

それからの類推に過ぎませんが、礼拝音楽は礼拝しながら聴く時にその良さが最もよくわかるのではないか、とも思います(それ以外の時に聴いても良い音楽であるにせよ)。少なくとも、「礼拝のため」に書かれたということは、音の響きそのものによって感動を与えるために書かれたのではない、ということです。そこで歌われる歌詞(信仰的な言葉)がきわめて重要だということでもあります。そして、バッハの音楽を愛してもっとよく知りたいと思うならば、バッハの信仰の世界に近づき、歌詞の選び方や礼拝についての考え方に迫ることになるのは、必然の成り行きでしょう。

そういうことをあまり考えなくても、バッハの音楽は素晴らしい響きだと思うのですが、そしてそのような聴き方を否定するつもりはないのですが、「音楽の根源は感動」と言うときの「感動」の性質については少し注意を払うべきかもしれない、というのが私見です。言葉を伴わない器楽については、純粋に音の響きを追求する演奏法や鑑賞法があると思いますし、それは一つの立場だろうと思いますけれども。

もしも「バッハの信仰を理解しようとすることなしに、バッハ(の音楽)への理解を深めることは困難だ」と言うのであれば、私は同意できます。
かげっち
2009/09/06 18:50
ちなみに、モーツァルトのレクイエムはどのような機会に演奏しようと考えたのか定かでないですが、「死者を悼む心情」は「神を礼拝したいと願う心情」に比べ、信仰を同じくしない方にも理解しやすい心情のように思います。それにしても、なぜ誰のためにあの曲を書いたのかが詳しくわかれば、私たちは今までと違った聴き方や歌い方ができるのかもしれません。しかし残念ながら、バッハの信仰ほど詳しいことはわかっていまいように思います。

ベートーベンに至っては、正統なカトリック信仰があったのかどうかさえ定かでない、なぜどのような信仰的意図でミサ・ソレムニスを書いたのか不思議であると私は思いますが、しかし彼を突き動かす強い動機がなかったならば、長時間の苦闘の末にあれだけの大曲を仕上げることはできなかったでしょう。同様に彼の作曲動機についてもっと詳しく知ることができれば、違った聴き方・歌い方ができるだろうにと残念です。第九の作曲者が、シラーの「特定の宗教にとらわれない普遍的な感情」を詠んだ詩に感銘を受けて作曲したのだとすれば、作曲者は演奏者に特定の信仰を求めたわけではないだろう、と理解できそうです。(バッハが、ルター派の信仰を持つ人が礼拝することを想定して礼拝音楽を書いた、と想定できるのとはいささか異なるということです)
かげっち
2009/09/06 18:58
私は特定の宗教の信者ではありませんが、
神と一対一で対峙して祈る人の姿を美しいと感じます。
信仰を持たない私ですが、昨日一日、ある有名な宗教の神と
音楽で対峙してみました。
お聴き戴けましたら光栄です。
                  Papalin
 
Stanesby
URL
2009/09/07 05:56
シラーをなぜハイネとしてしまったのか、直しておきます。
かげっちさん蒙を啓いて下さって有り難う。
sonnet
2009/09/07 09:19
◇bunbunさん

お返事お待たせいたしましてすみません!
今回の記事は、ヨハネよりマタイが好き、という視点から、なぜマタイがこんなにも私の心を震わせるのか考えてみたいわば思いこみのようなものです。
ヨハネが受難から十字架上の死、復活、と約束の成就について栄光を期するものに対し、キリストの死が客観的にはまだ何を成就したのか説明されていない分、ただ深い悲しみだけが暗い夜のように降りてくるマタイの終わり方に、未だ復活によって完成されていない「キリストの死」の生々しいまでの重みを感じるからなのかもしれません。
この死の重みを感じて思わず「なぜ?」という問いとともに天を仰ぐ。キリスト者ならばすでにその答えは知らされたいるはずですが、何度この曲を聴いてもそのたび「何故」と問いかけてくるものがあります。一人一人の「なぜ」の中身はみな違うのかもしれませんが、(いや、違うのが当たり前ですね)
聴く人の信仰のあるなしにかかわらずバッハはこの曲で人として生きる意味を問いかけてくるような気がします。怖い曲です。


aosta
2009/09/07 17:31
◇Tenorさん

いつもハッとさせられるコメントをありがとうございます。
川端純四郎氏については何も存じませんでした。
ネットで調べてみましたところ凄い方なのですね。

>「信仰のある人」など存在しないということ。

ここまで言い切るということはすごいです。
毎日、毎朝「新しく生まれ変わる」こと、そのたび「新しい衣」を着て、まっさらな自分でバッハに対峙する・・・
思わず姿勢をされる言葉でした。
aosta
2009/09/07 17:41
◇かげっちさん

>aostaさんの問いは、いつも本質的な問題を突いているような気がします。

これは大いなる誤解です。
むしろ自分の考えが十分に練られていない証拠と思っています。

>神の助けなしに人は自力で信仰に到達できないということ

信仰は与えられるものであり、出会うものである、ということでしょうか。
そうだとするならば、この曲を聴く数知れぬ人々はこの受難曲の中で、確かに神さまに出会うのだと私は思います。
信仰も音楽も「出会い」を強要されるものではなく、ただ「与えられる」という意味では近い物なのかもしれませんね。
かつてのカトリック教会で、すべての芸術の中で音楽が最高に位置付られていた、という事実もそうした認識があったからなのかもしれません。

>「信仰のない人には聴いてもわからない」と言わんばかりの、人を裁くような  言い方

私にとっての音楽は「わかるもの」ではなく「感じるもの」であります。
祈る時も同じかもしれません。
分かったから祈るのではなく、感じるから祈るのだと思います。
aosta
2009/09/07 21:49
◇かげっちさん

しばらく前に小塩節さんの「銀文字聖書の謎」という本を読んだことを思い出しました。グーテンベルクが活版印刷を発明する遥か前の4世紀(!)初めて聖書をギリシャ語から自国語に翻訳したゴート人ウルフィラの物語でした。
翻訳のために「ゴーと文字」を作るところから始めたというウルフィラの情熱はただ聖書を自分たちの言葉で読みたい、伝えたいというひたすらそれだけの想いであったのでしょう。
彼が訳出したゴート語聖書が、やがてドイツ語にも訳され、さらには音楽によってより崇高な感情を伴うものへと変わっていったことを思うと、まさに聖書という一冊の「本」が世界を越えていったことを実感いたします。
aosta
2009/09/07 21:50
◇alexさん

こんばんは。
二枚の絵、気にいっていただけまして、嬉しいです。
最初の「キリストの埋葬準備」の絵、登場人物は皆後ろ姿で描かれています。打ちひしがれてうなだれたまま丘を下ってゆく人々。
キリストの遺体だけが松明の明かりに照らされています。
空は暗い暗い青。
こんなに深く死の悲しみに満ちた空の青を知りません。ジオットーの青にも深い悲しみを感じますが、こちらが結晶した悲しみのように澄み切った青であるのに対し、このヴェレシャギンというロシア画家の作品には、重く垂れこめて悲しみの極まった色のように見えてなりません。

カルトンの「ピエタ」。
キリストの頭には金色に輝く光輪が描かれていますが、茨の冠にそっと手を伸ばしているヨハネの指先が、あたかもマンドリンの弦をつま弾いているかのようだ、書いてあった本がありました。光がマンドリンの弦ならば、どんなに深い悲しみの音色を奏でていることでしょう。

>洗礼を受ける前と受けた後とでは異なる感覚がありました

このお気持ちは良くわかります。
aosta
2009/09/07 21:51
◇HTさん

コメント、とても嬉しく読ませていただきました。
丁寧な文章にHTさんのお人柄がしのばれます。
私の悪い癖ところはつい書きすぎてしまう所かもしれません。
自分が関心のあることなので深く穴を掘りすぎてしまい、最初目指したものとは別のものを掘り出してしまうことが良くあります(笑)。
特に宗教の話は、難しいですね。このブログを読んでくださる皆様にもいろんな立場の方がいらっしゃいます。違う見方や価値観があって当然ですし、むしろ「キリスト教」の物差しですべてを測る事は控えなければなりません。
ただ、何の因果か好きな音楽には宗教曲が多く、それについて語る時は、キリスト教を避けて通れないことが多いのです。
仮に私がクリスチャンではなかったとしても、マタイ受難曲をはじめとするバッハの音楽には強く引かれたであろうと思います。
音楽には、そうした不思議な力、エネルギーがあります。
マタイの中のアリア『憐れんでください、私の神よ』これは本当に美しい曲です。
URLを添付いたしました。もしよろしければおきききださい。
古い録音、私の好きなキャスリーン・フェリアーという歌手の演奏です
aosta
URL
2009/09/07 21:53
こんにちは。
信仰心と音楽について、記事やみなさんのコメントとても興味深く読ませていただきました。ずんずん心が静かになる感じがします−−。
 ずっと前のことですが、中学生の吹奏楽コンクールの指導に行ったとき、自由曲が教会音楽でした。「神を敬う純粋な心、大切な音に変えて響きあうよう、演奏してみない?」と難しいことを言っちゃったんですが、その後の曲が見事調和しあってとても素晴らしかったんです。聴いていて鳥肌がたちました。
 音楽には本当に不思議なエネルギーがあると思います。
見事綺麗なハーモニーを聴かせてくれた綺麗な心の学生たち。
とてもステキな瞬間でした。
ちょろえ♪
2009/09/08 08:46
>「信仰なくしてバッハを理解する事は不可能。」
私たちはいったい何を知りたいのでしょうか、J.S.バッハという人物の考えや感性?この人が遺した作品の本質?両者は不可分ですが同一でない。
JSBという人物を知りたいならば、生い立ちや家族を知ることも大切かも知れず、信仰篤い人であったならばその信仰を知ることも大切でしょう。詳しく知りたければルター派とカルヴァン派の信仰態度や音楽観の相違を知ることも。
JSBの作品を知るためには、楽譜や演奏に触れることこそ原点だとする考えもあるでしょう。作品が人物を離れて存在するようになってしまった以上は。ただしこれは、楽譜の出版や録音の流通が当たり前になった「特定の時代・地域」で特に優勢な作品理解の視点ではないのか、とも思うことがあります。
さてリフキンのマタイ、聴いてみたかったです。作者の指示通りにすると意外な大編成になってしまいますが、奏者の配置や使い分けに作者のどのような意図があるか説き明かしたゼミを学生時代に聴講したことがありましたので。
かげっち
2009/09/08 12:49
aostaさん、こんにちは。

思い立って「マタイ」を聴く事が出来ただなんて正に神様の思し召し!しかもそれがリフキン指揮だなんて奇跡ですね。リフキン氏は自身の唱えた「各パート一人」説を一生懸命世に訴求しようとしているのでしょうか。
大合唱との響きは全く異なりますので、僕は「どちらもそれぞれの良さを楽しめばいいじゃない」と思っています。Cリヒターの深い感情を湛えた大コーラスも、聖トーマス教会の純真無垢な少年合唱もどれも宝物に他なりません。

それとキリスト教徒でなければ「マタイ」を理解できないか?という点については「ノー」と思います。ただし、信者であることは必要ないですが、この世の摂理とかスピリチュアルなものを否定する方だと理解は難しいでしょうね。この音楽を単なる「音響的」なものとして聴くのでは余りに虚しすぎます。キリストの受難に共感を覚えることはやはり真の鑑賞の上で必要だと思います。

ところで僕は個人的にはコラール中心の「ヨハネ」も非常に好きです。「マタイ」とどちらか一つといわれればどうしても「マタイ」ですが、「ヨハネ」も同じように好んでいます。
ハルくん
URL
2009/09/08 18:23
aosyaさんはじめまして、こんばんは。
「アヴィニョンのピエタ」をさがして流れ着いた者です。
私は音楽については何も知りませんので気の利いたことは言えませんが、この「アヴィニョンのピエタ」のような宗教画がとても好きです。
宗教画が好きだからと言ってもキリスト教のことについては少ししか知りません。でもこれらの絵を見ているとなぜか心が清められるような気持になります。
特にこの絵は聖母マリアの悲しみにやつれた顔を見ると、我が子が辱められ苦しみのうちに死んでいった我が子への愛が苦しいほどに伝わってみます。
これほどの苦しみを味わった女性がほかにいたでしょうか?
同じ宗教でなくても聖母マリアの悲しみを私も悲しみます。
音楽も同じだと思います。本当に素晴らしい音楽は、宗教や信仰を超えて人を感動させるものだと思います。まずは感動です。信仰はそのあとからついて行ってもいいじゃないですか。もし特定の信仰という形にならなくても神様がいらっしゃるということは感じているんです。愛されていることも感じているんです。

いちご大福
2009/09/09 00:17
aostaさん書くのを忘れましたが音楽を聞かせてもらいました。
どっちの曲もきれいというだけではなくて、stanesbyさんの音楽も、二つ目の女性の歌もなんだか神々しいような音楽だと思いました。合唱曲を聴いたのは高校生の時以来初めてです。アリアというものも初めて聞きました。
どっちの音楽もaostaさんのブログにぴったりだと思います。
古いブログでも私の好きな絵について書いたものがいくつかあるので、これからそっちに行ってきます。ながながとお邪魔してすみませんでした。
いちご大福
2009/09/09 00:36
◇sonnetさん

すみません。お返事おそくなってしまいました。
実は昨夜sonnetさんへの御返事を書いたのですが、何度送信ボタンを押しても反映されず、挙句の果てにコメントが消えてしまいました。気を取り直して再度試みましたが、やはり結果は同じ。同じものを3回書くという気力を失って、そのままPCを閉じてしまいました。
・・・さて、今朝はどうでしょう。
あらかじめコピーを取って送信ボタンを押すことにいたします。

sonnetさんも、「バッハからの贈りもの」をお読みになっていらしたんですね。
この記事をアップしてから「信仰なくしてバッハを理解する事は不可能。」という文章の前後を中心に、何度か読みなおしてみたのですが、やはり言葉通りにしか読めませんでした。演奏家が自らのスタンスを表明することには何ら問題はないと思いますが、聴く側に何らかの資格を要求することがあってはならないと思います。sonnetさんが仰っているように「音楽の根源は感動」。バッハの音楽には説明がなくても(信仰がなくても)何か崇高なもの、大いなるものを感じてしまう深さと素晴らしさがあります。
それは心を澄まして音楽に耳を傾けることができる人には必ず伝わる音楽の命です。結果として、キリスト教的なものに関心を持つ、もしくは近づくということがあっても、その順番が逆転して「信仰がなければ・・・」という発言になってしまうのは、バッハの音楽を愛する者として何とも納得しかねるところであります。
音楽へのアプローチの仕方はこうでなければならないという限定されたものではないと思います。バッハが時代を超えて「アルファにしてオメガ」である所以もまさにここにあるのではないかしら
aosta
2009/09/09 07:50
◇sonnetさん

今朝はPCのご機嫌もいいみたいです。
なんとか送信できました=^_^=
でもやっぱり昨日のお返事の方が勢いがありました。

中国の古人はわかれた妻が復縁を迫ったとき「覆水難収」「覆水盆にかえらず」と言いました。レット・バトラーはスカーレットの目の前でガラスのコップを割って、「一度壊れたものは元には戻らない」と言いました。
私のコメントも、お盆にも元にも、戻らないようです(涙)。

aosta
2009/09/09 08:01
◇Stanesbyさん

コメントありがとうございます。
お返事をずいぶんお待たせしてしまいすみませんでした。

>「非クリスチャンには、キリスト教の知識も不要である。」

もとの文章では

「そもそもクリスチャンでない人がキリスト教を理解する必要はないですね。」

というものでしたね。
この言葉は、バッハ理解のためには信仰が必要」という前述の言葉と連動して、バッハの音楽をはじめとする宗教音楽をクリスチャンだけのものと限定してしまうような印象を与える危険性をもった言葉だと思います。
信仰をもつ者も、持たない者も、あまねく私たちを愛していらっしゃる神様にとっても不本意な言い方ではなかろうかと思います。
BCJのメンバーが全員クリスチャンとも思えませんが・・・
aosta
2009/09/09 10:21
◇sonnetさん

お返事がこんなに遅くなってしまいました。
おまたせして本当にすみません。
作品を愛していればおのずから作者への関心も深くなるとおっしゃられるsonnetさんのお言葉は全くその通りだと思います。
バッハの音楽を愛していれば、バッハの生涯や信仰についてより詳しく知りたくなるのはむしろ自然なことでしょう。ただ信仰については「かくあるべし」というひな形があるわけではなく、日々新たな信仰が与えれ、その形も様々なものだと思います。心が萎えた時、くじけそうな時、バッハの音楽に力と希望を与えれる経験をされた方は少なくないでしょう。それはバッハの音楽が深い祈りそのものであり、愛に満ちたものであるからに他ならないからだと思います。
人間という存在の哀しさは宗教を超えた人間の普遍的な認識なのではないかしら。この「マタイ受難曲」に限らず、バッハの宗教曲を聴いて涙するとき、人はみな大いなるものの存在に心を揺さぶられているのではないでしょうか。
バッハの音楽はキリスト教の枠を超えて聴く人が頭(こうべ)を垂れる宗教的敬虔に導くことができる稀有な音楽なのだという気がします。
極論かもしれませんが、宗教曲をより深く共感するために、キリスト教を知ることは(信仰を求める場合は除いて)ひとつの「方法」だと考えてもいいように思います。

もしかしたらバッハの音楽はキリスト教という枠を超えたはるかに大きな音楽であるのかもしれません。モーツァルト、ベートーヴェンにしても然り。
あえて反論を承知で言わせていただくならば、すべて「内なる信仰」は人それぞれによって違う形を持っているもの、特定の信仰がなければ理解できない音楽など存在しないのではないか、とも思えてくるのですが・・・
aosta
2009/09/16 22:31
なかなかコメント書けなくて通っちゃいましたよ(^_^)

仮に「長く煮込まれたシチュー」に例えさせていただきます。
シチューを長く煮込んでいると、タマネギはカンペキに溶けてしまいますよね?

で、「キリスト教うんぬん」は、この「タマネギが溶けていることを知らんだろう」的な指摘。反対意見は「タマネギなんかいいじゃん。」という派ではないでしょうか?

いずれにせよ、タマネギは溶けている訳で、それを知っていようがいまいが、結果的に「おいしければいい!」と思います!

マタイ受難曲はなかなか濃厚ですが・・・。



書記
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2009/09/17 21:43
◇かげっちさん

長いことお待たせしてすみません。
やっとお返事が書ける状態になりました。
なんだか間が抜けてしまって、改めてどんなお返事をさしあげたらいいものや、考えがまとまりませんが、お許しを。

>音の響きそのものによって感動を与えるために書かれたのではない

これはその通りだと思います。
けれども、そうした作曲家の意図とは別に、作品は完成した時から独り歩きを始めるもののように思います。バッハ限らず、音の響きそのものによって時代や言葉を超え、文学作品や絵画・彫刻にも増して直接的に魂に語りかけ揺すぶるものが音楽なのではないでしょうか。
一方で、「言葉」にこだわるかげっちさんのコメントにも共感するところ大、のaostaでもあります。音楽と言葉、言葉の持つ意味、それは素通りしていいものではないと思います。マタイ受難曲が、聖書の言葉を借りて伝えたかった真実は言葉を手掛かりにすることで初めて明らかになるものだと思いますが、その「真実」とはクリスチャンだけが答えを与えられる、というものとも少し違うように思います。
私たちの思惑を超えて深く大きい神の愛は、人を「区別」することからはもっとも遠い存在なのではなかろうか、と考えてしまいました。

ベートーヴェンを突き動かした強い動機・・・

確かに彼にはバッハのように「信仰の人」というイメージはあまりありませんね。ベートーヴェンは何か激しい情動、喜びにつけ悲しみにつけ、キリスト教的平安からは程遠かったのではないかという感じは確かにあります。けれど彼が残した走り書きのような文章の端端には、神への強い希求があるように思います。希望と絶望の両極を彼ほど激しく振幅した人を知りません。外の誰でもない彼自身が「ミサ・ソレニムス」を必要としていたのではなかったか、と思えてなりません。
aosta
2009/09/17 22:41
◇Stanesbyさん

コメントありがとうございます。
御返事遅くなりまして、すみません。自分で蒔いた種とは言いながら、たくさんのコメントを頂き、どれも御返事を書くことに窮するような深い内容のものが多く、しばらく固まったままの私でしたが、Stanesbyさんの演奏を聴いて慰められました。なんて美しいメンデルスゾーンでしょう!ユダヤ系のメンデルスゾーン家が財をなしてキリスト教に改宗したことはよく知られたことですが、フェリックスの中で、ユダヤ的な神とキリスト教の神がどのように出会い、信仰という形に成熟していったのか、知りたいと思いつつ、結局のところ誰も知りえるところではにのかもしれません。バッハを再発見したことでも知らるメンデルスゾーンの「信仰の形」はわかりませんが、一連のモテット、及びアンセムを聴かせていただいて、涙が流れる感動を覚えました。素晴らしい演奏をありがとうございます。
Stanesbyさんの祈りは言葉ではなく、音楽なのですね。


aosta
2009/09/17 22:51
バッハは、僕が育った教会の牧師先生が好んでよく聴いていました。
入院していた死の床でも、奥さん先生がよく聞かせてあげてたようです。
僕自身はきちんと洗礼も受けていませんし、バッハは、はっきり言ってよくわかりません。
でもその父親がわりだった牧師先生の亡骸を見た時に、イエス・キリストの死の前に立ち尽くした弟子たちの悲しみが、その瞬間の僕の悲しみと、まったくもって絶対的に寸分違わず同じであることを確信し、それまでずっと反発していたキリスト教について、強烈な親しみと救いを感じました。
2000年たっても、人間の、愛する者の前で感じる「悲しみ」の質は変わらないなら、宗教が、そして宗教音楽が、それらが生まれた瞬間の真実を今に伝えているその絶対性を、僕は今なら少し信じる気になれそうです。
<S>
Beehive
2009/09/17 22:57
◇ちょろえ♪ちゃん

もしかして、首がすっかり伸びちゃっていませんか?
長くお待たせしてごめんなさい。Stanesbyさんの御返事にも書きましたように、どう御返事を書いていいものやら、迷う時間ばかりが過ぎて、今頃になってしまいました。

>自由曲が教会音楽でした

中学校の吹奏楽コンクールでどんな教会音楽が演奏されたのか、とっても知りたくなりました。ちょろえ♪ちゃんの指導するところを見たかったです!!
わがM氏もつい先日、請われて小学校の演奏指導に出かけました。荷物運び兼カメラマン兼助手として同行した私でしたが、素直で純粋な心と感性で演奏された音楽は教会音楽ではありませんでしたが、本当に素直で清らかでした。
ちょろえ♪ちゃんと同じく、無垢な音楽の持つ不思議な浄化の力を感じた瞬間でしたよ。

aosta
2009/09/17 23:01
◇ハルくんさん

久しぶりにおいで頂きましたのに、長らくお待たせしてしまい、申し訳ございませんでした。
リフキン、よく確認したら、聴きに行きましたのは7月ではなく6月の末でした(笑)。あまり暑い日でしたので、てっきり7月、と思いこんでいたのですが・・・
もう3か月も前のことになってしまいました。細かいことはすでにうろ覚えなのですが、この曲を演奏会で聴いたのは初めての経験でしたから、感動の波間に長いこと漂っていた気がします。最前列で聴いたマタイはそれぞれの掛け合いも生々しい相克のドラマでした。ハルくんさんも仰ったように、音楽だけ、音の響きだけでは到達しえない感動があったことは確かだと思いました。
あの瞬間、演奏者も聴衆も、同じ一つのドラマを共有していました。大いなる生と死のドラマ。裏切りも嘆きも、みな私たちのものでした。

>信者であることは必要ないですが、この世の摂理とかスピリチュアルなものを 否定する方だと理解は難しい

このご意見も全く想いを同じくいたします。

>コラール中心の「ヨハネ」も非常に好きです。

「マタイ」は抜粋で聴けても「ヨハネ」を抜粋では聴くことができない、と言おう様な言葉をどこかで読みました。
なるほど。アリア中心の「マタイ」はひとつひとつ、一人一人のドラマですが、ヨハネは全部で一つのドラマという感じです。コラールによって次々織られてゆく一枚の美しい織物のようです。
aosta
2009/09/17 23:24
◇いちご大福さん

はじめまして。おいでくださいましてありがとうございます。
アビニョンのピエタからいらしてくださったんですね♪
あの絵には、不思議な魅力を感じます。静謐で時間が止まったような画面でありながら、描かれている人物の内面には、激しいドラマがあります。
抑制された悲しみだからこそ、心のより深いところが反応するのかもしれませんね。
>もし特定の信仰という形にならなくても神様がいらっしゃるということは感じ ているんです

信仰することが目的ではなく、信仰する心は結果なのだと私も思います。信仰が「与えられるもの」と言われる所以ではないでしょうか。

初めておたずねくださいましたのにお返事が即なりまして申し訳ございませんでしたm(__)m
aosta
2009/09/17 23:33
◇いちご大福さん

二つもコメントありがとうございました。
Stanesbyさんの演奏をお聴きくださったのですね。

>どっちの音楽もaostaさんのブログにぴったりだと思います。

演奏はともかく、私のブログに「ぴったり」、ですか?
喜んでもいいのかな(^^ゞ
おほめ頂いたと考えてよろしいの?単純なaostaです(笑)。
過去記事への書き込みも大歓迎です!お待ちしています。
aosta
2009/09/17 23:38
◇書記さん

コメントありがとうございます。ブログが新しくなってからは初めてですね。
迷わずたどり着かれたようでうれしいです!

「長く煮込まれたシチュー」なるほど、脱帽です。
「それを知っていようがいまいが、結果的に「おいしければいい!」と思いま  す!

う〜〜んん・・・ けだし名言!
本当にその通りだと思います。
書記さんにかかれば、私が何日も頭を悩ませていたのが馬鹿みたいに思えてきました。形が残っていようがいまいが、タマネギの本質がシチューの中にあるのは確かですよね。美味しいって頂けば、誰が食べてもシチューの中には凝縮されたタマネギの旨みがいっぱい。
お料理上手な書記さんならではの発想、感服いたしました。

書記さんは最近どんな本を読んでいらっしゃるのかしら?
いつも素敵な刺激を下さる書記さん、次なる刺激を楽しみにしています。
aosta
2009/09/19 20:43
◇Beehive Sさん

こんばんは。

>2000年たっても、人間の、愛する者の前で感じる「悲しみ」の質は変わらないなら・・・

愛する人を喪うということは、宗教も時代も超えて、すべての人が同じ悲しみを共通するということにほかなりませんよね。
死後の世界がそれぞれの宗教や時代でどのように認識されていたとしても、心を引き裂かれる悲しみは変わりません。私たちが、本当の意味で心を一つにできるのは、死を前にした時の悲しみなのではないでしょうか。
この悲しみの前に理由は要りません。理由など無力です。
キリストが自らの死によってすべての人間に語りかけたことに真理があるとすれば、この死があってこその真理なのでしょう。
Sさんの気持ちはいつも柔らかく、傷つきやすい。親代わりでいらした牧師先生の死が語りかけたことを受け止めたSさんのお気持には、悲しみの涙だけでなく、優しく温かい息遣いを感じます。何がって、うまくは言えないのですが、Sさんの純潔な感受性がうらやましい、と思います。
aosta
2009/09/19 21:05
しばらく島原や天草を旅しておりました。その話はまたいずれ・・・ということにして;

クラシック音楽については「作曲者の意図を尊重すべき」派と「聴く人の解釈がすべて」派の間に絶えず論争があるように思います。多くの音楽のジャンルではあまり問題にならないのに、なぜクラシック音楽では問題になるのか?ある人が「いわゆるクラシック音楽とは、1)主としてヨーロッパで、2)楽譜に書き残し繰り返し演奏されることを意図して作られた音楽である、と定義するのが最も正確であるように思う」と言っています。それだけ「どのように演奏してほしいかという作者の意図を重視するジャンル」なのだと言えるでしょう。

もう一つ言えば、現代では「クラシック音楽」として作曲者抜きで再演されることが普通になってしまったので、第三の立場として「演奏者の解釈や意図」があるり、話はいよいよ錯綜してきます。
かげっち
2009/09/23 16:44
そこで例えば、「バッハの時代・文化に即して考えればこれは礼拝音楽として書かれたのだから、その意図を正しう理解し、礼拝の中で演奏するのが本来である」という意見から、「現代文化に即して考えれば、他のさまざまな音楽と同様に、奏者や聴く人それぞれの解釈や演奏様式があって当然である」という意見まで、幅広い見解が生じてくくるのだと思います。ちなみに前者の意見は極論だと思われやすいですが、後者の意見も(作曲者の意図を尊重するクラシック音楽の伝統の中では)同じくらい極論なのかもしれません。私自身の立場は両者の中間にあります。このような振れ幅の範囲で互いの意見を尊重しつつ、聴いたり演奏したりするのがよいのだと思います。

なお、私が上のような立場を取るのは、聴くだけに徹することができない、時に演奏者の立場になるからでしょう。演奏者はどのように演奏するかを自ら選ばなければならず、「食べて美味しければいいじゃん」と言ってはいられないからです。食べるほう専門の人がいらしても、もちろんよろしいと思います。
かげっち
2009/09/23 16:44
◇かげっちさん

こんばんは。コメントありがとうございます。

>多くの音楽のジャンルではあまり問題にならないのに、なぜクラシック音楽で は問題になるのか?

なるほど、言われてみればその通りですね。
なぜクラシック音楽だけがその是非をこうまで問われるのか、また問いたくなるのか・・・考えてみれば、クラシック音楽ほど時代を超え文化を越えて世界に受け入れられている芸術はないのかもしれません。特定の時代や特定の国にとらわれず、効く人の内面を大きく揺さぶることができるのは音楽が他の芸術に比べて、言葉を超えて、直接感性に訴えかけてくるという特質故に多くの人に受け入れられてきた、という背景があるように思います。一方、この言葉と矛盾するようですが、少なくともヨーロッパを離れたわが日本にあっては、一部の「選ばれた人」のみの喜びであったことも確かです。
そしてその日本では、演奏する喜びや演奏会に足を運ぶ感動にもまして、一人座してじっとレコードに耳を傾けることによって音楽に出合い、レコード鑑賞がひとつの「文化」として浸透、成熟していったという背景も決して無視できない背景の一つではなかったかと思います。音楽もキリスト教も、ある意味でまず最初に「知識」として許容されたのではないでしょうか。
aosta
2009/09/25 20:26
◇かげっちさん

上記の考え方は、いただいたコメントのお返事としては的外れかもしれません。
直截に言うならば、バッハの曲を聴いているときの私は果たして信仰をもって聴いているのか、という不安があるのです。私の場合のそれは、もしかしたら信仰ではなく、ただの知識に過ぎないのかもしれない。だとしたら、音楽と対峙するときその知識が逆に躓きのもとになるのでは、という危惧です。いっそ何もない空っぽな状態でバッハに出合い、「神なるもの」に出合ったことを感じるという感じ方のほうが真実なのではなかろうか。むしろ無垢な心にこそ深く響くものがあるのかもしれません。

>私が上のような立場を取るのは、聴くだけに徹することができない、時に演奏者の立場になるからでしょう。

このお言葉は非常に真摯なものとして受け取らせていただきました。
私は「演奏者の立場」から程遠い者です。好き勝手なことを言っていても責任逃れはいつでも可能です。「どのように演奏するかを自ら選ばなければならない立場」にあることの相克の重さはいかばかりか・・・

もしかしたら遡ってお気持を害するような書き方をしていたかもしれないことを深くお詫びいたします。
「のっぴきならない立場」に立たなければわからないことがあるのだという事は確かにその通りなのだと深く思いました。
ありがとうございます。

aosta
2009/09/25 20:43
>aostaさん

いえいえ、しょせん私もアマチュア演奏家ですから、えらそうなことを言ってはいけないのです。ただ、若くてもっと生意気だった時代にジャズを奏する友人と飲みながら議論になって、結局「ジャズはコード進行という制約の中で、クラシックは書かれた音符という制約の中で、どうやって自己表現するかというチャレンジであって、スタンスに大きな相違はない」という結論に達したことを思い出したのです。

演奏する側に立ったとしても、「自分たちが弾いて楽しければいいじゃん!」というスポーティな立場はあり得ると思います。

今日の礼拝では冒頭の讃美歌に「血潮したたる」が選ばれ(マタイに使われている)、説教者から「この歌はもともと世俗的な恋愛歌だったのに、ゲアハルトが信仰的な歌詞をつけて替え歌にしたのを、バッハが用いた」と紹介がありました。元歌を知る人は、替え歌の歌詞を無視して聞くかぎり「あのセンチメンタルな恋愛歌だな」と思ってしまうでしょう。(最近はグリーンスリーブズの替え歌の讃美歌もありますが、イギリス人の友人は「元歌はムフフの歌詞だから(=不倫)讃美歌に使われると妙な気がする」と言っていました。無心に、無垢な心で聴くことが、もはや自分にはできないという場合は、けっこう多いように思います。
かげっち
2009/09/27 21:35
◇かげっちさん

おはようございます。
音楽の場合、一度聞いた時の「思い入れ」というか印象が強く刻み込まれてしまうように思います。
文学作品を再読した時、初めて読んだ時と全く違う読後感に驚くことがありますが、こと音楽に関して言えば、最初の印象がずっと尾を引いてしまいます。。
音楽とは、心のみならず身体まで反応する、いわば「全身全霊」の経験に近いのではないでしょうか。
目で見ること、読むことよりとても直接的な身体感覚です。
その分、刻み込まれた「第一印象」から逃れることが難しい。
私が教会で「グリーンスリーヴス」を讃美歌として聴き、歌えるか、と聞かれたらやっぱり躊躇してしまうでしょう(笑)。

何物にもわずらされず、音楽そのものの魂に身も心も包まれたい・・・という思いはすでに「思い」だけであって現実的でないことは私も感ずるところです。
こんな時ふと思い出すのは「汚れつちまつた悲しみに」のフレーズ。
経験することで、心は外からも内からも「無垢」から遠くなるばかりです。
経験によって損なわれていくものと洗練されていくもの・・・
生きるということのひとつの側面には、この背反するものとの折り合いをつけてゆくこともあるのかしら?
aosta
2009/09/28 09:40
横から失礼致します。
>生きるということのひとつの側面には、この背反するものとの折り合いをつけてゆくこともあるのかしら?
私個人の信仰観(人生観)なのですけれども、無垢になり切れない自分を知りつつ無垢でありたいと願い続けるということが、(良く)生きるということなのかなと思っています。(吉野弘の詩「雪の日に」を思い出しました)
その板ばさみに希望を与えるのが例えばバッハの音楽であり、それを聴いたり演奏したりする時に自分自身が調和の取れた和声の中に溶けて行く思いを私は持ちます。
“Jesu juva”“Soli Deo Gloria”と楽譜に書き込んだバッハの作品を聴いたり演奏したりする時、私は神の前に立つ思いがします。
Tenor1966
2009/09/28 12:25
◇Tenorさん

コメントありがとうございます。
吉野弘さんの詩、検索してみました。
手元に詩集がなくても、ネットですぐに探し出せる事はありがたいですね。

降り積もらせることでした覆い隠せない真実。
雪の白さはつかの間の白さ。雪の美しさは見せかけの美しさ。
悲しみながらも降り積もることでしか雪であり得ない真実は、おっしゃるように人の生き方にも似ていますね。
なんだか悲しくて心が痛くなる詩でした。

バッハの音楽はその痛みにそっと手を当ててくれる温かな光、もしくは再びの目覚めへと導くものなのかもしれません。
“Jesu juva”“Soli Deo Gloria”バッハの作品が祈りであること、また私たちを祈りへと導くものであることを改めて感じました。
ありがとうございました。
aosta
2009/09/29 11:06
コメントの数々を読ませていただきましたが、皆さん聞き手としてのお立場で発言されておられます。もしどなたか歌い手としてのご意見があればお聞きしたいと思います。私自身どちらも歌ったことがありますが、少しだけお話いたします。「ヨハネ」は歌い手に直接感動を与えます。歌っていることの幸せや、苦しみが直接心に響きます。「マタイ」は心の奥底にジワッとくる感じです。おもえばペーターシュライヤーの指揮と福音史家で歌った「マタイ」は忘れ難い思い出です。その折、彼は「バッハは一つのオペラも作曲していないが、このマタイはバッハのオペラだと思って、もっと感情を全面に出して演奏してください。」と。
 あまり精神論を全面に出されると、私のような小さな仏教徒にとって、バッハは歌ってはならないし、ベートーヴェンの第九も歌ってはいけません。まして、レクイエムなどもってのほかです。
皆さん、是非楽譜を購入して、わからないドイツ語を訳して自ら歌ってみてください。上手下手は関係なく、たった1曲のコラールだけでも。宗教に関係なく音楽の持っているそのものの偉大さも、聞いているだけでは十分にはわかりません。人間の声という楽器は、究極のものだということを改めて感じると思うのです。
ところで皆さんの想像しているバッハはどんな方なのでしょう。大酒飲みで子沢山(20人)の大食漢、コーヒー好きで煙草好き、死因が糖尿病によるものとされていることを思えば、眉間にシワを寄せて作曲をしていたとは思いません。ライプツィッヒでは葬儀などがあるとそのためのモテットを書いたり演奏したりして臨時収入があり、結構それを当てにしていたともいわれています。
バッハを神のように崇めず、自分達と同じ一人の音楽大好き人間と考えれば、もう少し違った角度からバッハの音楽を楽しめるのではないかと思っています。
それにしても「ヨハネ」も「マタイ」も凄い!
ウタキチ
2012/09/11 00:43
◇ウタキチさん

まずはお返事が遅くなりました事をお詫び致します。
こんな過去記事にまで目をお通し下さり、かつコメントを頂きまして恐縮です。
マタイ、およびヨハネにつきましての感想は全くの主観です。それも実際に歌ったことのない人間の感想に過ぎません。ただ、音楽とは演奏者と聴衆という事なる立場に立つ者同士がつくりあげて行く至上的なひとつの体験だと考えております。
私も含め、このブログにコメントをお寄せ下さいました方の大部分は、聴く側からのご意見をお寄せ下さった、と理解しております。演奏者を内側とするならば、私たちのように聴くことで音楽を体験する人間は音楽の外側にいる、と言ってもいいのかもしれません。聴くことを前提にして、宗教音楽を理解するについて、信仰というものが不可欠なのだろうか、という疑問が今回の私のブログのそもそもの出発点でありました。大勢の方から頂きましたコメントの内容もそれぞれの立場からの感じ方そのものであるかと思います。音楽をどのように感じるか、それは「かくあるべき」と限定されるはずのものではないのではないか。音楽を愛する人がすべて演奏者の立場に立たなければ音楽を理解できない、若しくは音楽を楽しめないとするならば、音楽は一握りの限定された人々のものでしかなくなってしまうような気がします。バッハの音楽を演奏することで、また聴くことで、特別な信仰心がなくとも感動にうち震える感性こそが大切と、考えております。
aosta
2012/09/14 19:12
◇ウタキチさん

長くなりますがもう少しお付き合いください。

バッハが後世の音楽史の中で神格化された結果、その音楽も神聖なものとして崇められるようになった事の是非については少なからず同感させていただきます。バッハの実像がいかに喧嘩ぱやく、愚痴の多い人間であったか、最近読みました「反音楽史」という本で改めて了解した次第です。私ももっと気楽に楽しむバッハがあってもいいと考えます。同時に、ヨハネ、マタイを筆頭とする宗教曲における宗教的情熱もまたバッハの真実であったと思うのです。神聖にして猥雑なバッハであるからこそ、その音楽は深い。人間も音楽もきっちり二分することのできない複雑なものであり、だからこそ魅力的であるのではないでしょうか。歌わなければ判らないこと、聴くことに徹することで感じることがあって、音楽は音楽として完結するものと考える次第です。僭越なお返事になったかもしれませんが、他意はございません。今後ともどうぞよろしくお願い致します。
aosta
2012/09/14 19:13
aostaさん
先日は突然お伺いしてご迷惑をおかけいたしました。Papalinさんの杯の数も気になっております。帰宅して、改めてCD棚とレコード棚を確認しましたが、バッハを全く歌っていなかった頃手に入れたマタイが出てきました。リヒターの指揮ミュンヘン・バッハ管弦楽団、福音史家にエルンスト・ヘフリガーという名盤中の名盤です。当時バッハの化身とまで謳われ、20世紀におけるバッハ演奏に大きな足跡を残した演奏でした。まさに神格化されたバッハがそこのいます。そしてレコードとしてもう一枚、レオンハルト指揮のマタイ。この頃ヨハネを歌う機会があり、メリスマ唱法に苦しんでいる時でした。カンタータ・コアという団体に所属しておりました。バスパートは3〜4名、全体で14〜15名の小編成、オケも1Pult編成で10数名で、指揮はイエスを歌いながらの吉江忠男氏でした。
CDになってから、ペーター・シュライアー版を手に入れ、その彼の指揮で全国5箇所で歌わせていただきました。そして昨年、もう一つのマタイを手にしました。それは、ムジカ・サクレ・トウキョウとうい団体で、指揮は山田実氏です。「マタイ受難曲」口語日本語版という内容で、日本語で歌われております。原語(オリジナル)で歌っているものにとって、違和感を覚えるとは思いますが、聞き手にとって物語が理解できるという点では、これも在りと思います。(※ 山田実:息子の師匠)またレコードの中に、リヒターの指揮でメサイアのドイツ語版「ハレルヤ・コーラス」があり、リヒターが原語演奏に拘ってはいなかったということが判ったのも、ほっとさせられました。
ウタキチ
2012/09/18 09:58
音楽にどう立ち向かい、どう受け入れ、どう同化し、感動するかは、人により、時により変化していきますが、そこを大切に楽しみたいと思っております。《演奏者の立場に立たなければ音楽を理解できない》などと思い上がったものでは全くありません。私の師匠の故関屋晋先生が「富士山へ登るには御殿場口しかないと思うな、吉田口もあれば須走口もある。同じ頂点を目指すにも人それぞれ方法があって当然だ。お前さんはどう思う?」とよく話されていたのを思い出しました。同じ曲をあらためて演奏したり聴いたりしたとき、全く違う視点から見つめ直すということは、至難の業ですが、それをしてこそ再演や再聴の意味があるということでしょう。
「音楽」という日本語が、Musicという単純な単語ではないことを嬉しく思いつつ、稚拙な長文を読んでいただき感謝しつつ、今後ともよろしくお願い申し上げます。
ウタキチ
2012/09/18 10:22
蛇足
リヒターの指揮ミュンヘン・バッハ管弦楽団による「マタイ受難曲」は、全く同じ録音であるにもかかわらず、我が家の蔵書?から、レコード盤、VHD盤(映像)、CD盤の3種が現れ、自分で買ったにもかかわらず驚いています。
ウタキチ
2012/09/19 11:52
◇ウタキチさん

>先日は突然お伺いして・・・

こちらこそ楽しい時間をありがとうございました。
この時期の日暮れは早いですね。気が付いたら窓の向こうは真っ暗で(笑)。
お食事も差し上げませんで大変失礼を致しました。
どの道を辿るにせよ、辿りつく頂点は同じ、という関屋先生の例えはとてもシンプルですが判りやすいですね。道が違えば、当然のことですが、見えるものは違ってきます。違っていることが当たり前で、違う様に見えても辿りつこうとしている場所は同じ、という事ですね。

>同じ曲をあらためて演奏したり聴いたりしたとき、全く違う視点から見つめ直すという ことは、至難の業です

自ら演奏することのない私には「聴く」という経験からの感想になりますが、自分が気に入って何度も繰り返して聞いた曲は既に身体が覚えてしまって、テンポが違い、アーテキュレーションやアゴーギグ野違いに微妙に反応してしまい、客観的に聴くことが難しいと言う事実があります。演奏するに至ってはそうした傾向がさらに強くなるだろうことは、僭越ながら想像できます。だからこそ再演、再聴の意味があると言うお言葉、深いです。

>「音楽」という日本語が、Musicという単純な単語ではないことを嬉しく思いつつ

全く同感です!!
aosta
2012/09/24 06:54
◇ウタキチさん

>レコード盤、VHD盤(映像)、CD盤の3種が現れ・・・

私も、モーツァルトやフォーレのレクイエムを何枚持っているか判りません(笑)
かつて聴いた曲を全く違う視点から見直す事の難しさについて、同感する旨の言葉を書きましたが、よくよく考えてみますれば、聴くことに特化した側だからこそ、(ある意味でお気楽に)聴き比べが出来るのかもしれないと言う事実にハタと気づきました。
演奏も再演も、音楽をつくりあげると言う意味においてはゼロからの出発なのでしょう。
徒手空拳で挑むための演奏者の準備や心構えを考えた時、あだやおろそかに聴いては申し訳ないと言う気持ちになりました。
10月のフォーレ、いろんな意味でとても楽しみにしています。これからお忙しくなることと思いますが、どうぞご自愛くださいますように。奥様にもよろしくお伝えくださいませ。
aosta
2012/09/24 07:07

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 「マタイ受難曲」について思うこと 消えがてのうた part 2/BIGLOBEウェブリブログ
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