わたしが愛をうたおうとすると・・・ 「ピアノを弾くシューベルト」




「わたしが愛をうたおうと すると、それは悲しみになった。
そこで悲しみをうたおうとすると、それは愛になった。」



31歳で亡くなったシューベルトが生前残した文章には、若くして逝った彼の初々しく傷つきやすい想いが溢れている。
シューベルトにとって愛と悲しみは合わせ鏡のように、または絶えず変奏されて繰り返されるフーガのように流れ流れて緩やかな円を描くものだったのだろうか。
それとも、手に入れた、と思った瞬間、しなやかな魚のようにするりと身をくねらせ、指の間から逃げていくのが愛だったのだろうか。
失われた愛、去っていった愛の苦さをシューベルトが歌うとき、掌の中の悲しみは、小さな火を点したように儚げに、そして限りなく優しく輝き始める。



画像

「ピアノを弾くシューベルト」 グスタフ・クリムト(1862-1918 )



シューベルトが死んで35年ほど後、同じウイーンで活躍した分離派の旗手、クリムトが描いたこの作品は第二次世界大戦のさなか、火災によって失われた。
「退廃芸術」の名のもとにクリムトの作品は政府によって没収され、オーストリアの片田舎にあったインメンドルフ城に集められていたのだが、敗戦の色も濃くなった1945年、ナチの親衛隊の手によって放たれた火は城を焼き尽くし、この「ピアノを弾くシューベルト」は、城とともに焼失した。

クリムトが描いたシューベルトは暖かで幻想的な輝きの中にいる。
従来のクリムトのイメージからすれば、「クリムトらしからぬ」作品と言えるのかもしれない。
クリムト自身がシューベルトの音楽を愛していた、というより、誰かの依頼があってこの作品は描かれたとみる方が正しいのかもしれないが、そうした背景はともかく、わたしにとってこのシューベルトは誰が描いたシューベルトより、シューベルトらしく思える。


シューベルトの音楽を聴くときの胸が痛くなるような懐かしさ。
同時に、甘いその痛みは喪われた恋の痛みにも似ている。
シューベルトの愛と哀しみは、ちょうどメビウスの輪のように、愛だと思っていたものがいつの間にか悲しみとなり、
悲しみだと思っていたものが愛へと変容していく。
愛が呼びかけ、悲しみが応える。

優美で哀切なメロディー、せつせつと溢れてくる憧れ。
シューベルト晩年の即興曲を聴くたび、私の胸は熱く涙に濡れる。
悲哀と憂愁とが織りなす、存在そのものの悲しみが、音になり旋律となる。
ある時は優しく煙る雨のように、またある時は心を穿つ涙のしずくのように。
しっとりと大地を潤してゆく雨のように頬を濡らした涙が静かに乾いていくとき、
シューベルトは、まだ濡れた眼差しで、ひっそりとはにかみながら微笑んでいるに違いない。
容れられなかった愛に傷つき、喪失の悲しみのうちにあってなお、不器用にまた誠実に、自らの生と音楽に生きたシューベルトがここにいる。





< 関連ブログ  >

    ♪「アルペジオーネ・ソナタ」    →  http://follia.at.webry.info/200805/article_2.html
    ♪「魔王/フッシャー・ディスカウ」 →  http://follia.at.webry.info/200706/article_13.html                






この記事へのコメント

my
2009年01月24日 14:34
 aostaさん、こんにちは。シューベルト のリート、素敵ですね。クリムト は、恥かしながら知りませんでした。しかし、シューベルト のリートは大好きです。aostaさん がお書きになっていらっしゃるように、愛と哀しみが、心にしみとおってきます。ジェシー・ノーマン の歌うソプラノ 「 湖上 」 「 ミューズの 子」 「 魔王 」・・・ハンス・ホッター のバリトン 「 冬の旅 」、それと、ディースカウ の「冬の旅」もいいなあ。クリムトの 「 ピアノを弾くシューベルト 」、まさに シューベルト とは、このような雰囲気の人物だったんだろうと思わせる、説得力のある絵画です。私が小学校低学年の頃、父が 「 郵便馬車 」 や 「 春の夢 」 「 菩提樹 」 を歌っていました。今、aostaさん に感化されて、久しぶりに 「 冬の旅 」 を聴きながらこのブログを書いています。これからは、弦楽四重奏の 「 ます 」 や 「 死と乙女 」の季節ですね。今日はこちらは小雨です。風邪などひかれませんよう、お身体お大切に。それでは又、失礼致します。
2009年01月24日 14:35
愛を歌おうとすると悲しみになり、悲しみを歌おうとすると愛になる・・・・。
私にも、とても簡潔な真理に思えます。愛とは、そういうものかなと。
私もちょっと気になっていたシューベルトさん(笑)、この絵は何とも言えず安心させられます。しかも大好きなクリムト作だなんて!紹介して下さってありがとうございます。
坂本誠
2009年01月24日 16:25
こんにちわ。aostaさん。
そう言えば、さすがにシューベルトまでは、小学校以来、あまり聞いていない所でした。でも、クラシックですから、テレビのコマーシャルででも、結構、流れているのでしょうが、僕が聞き漏らしているだけでしょう。ですので、僕が不勉強なのですが、シューベルトの音楽とは悲哀がこもっているのですね。そう言えば、そのように音楽の時間に教えられたような記憶が無いでもないような、、、、
でも、シューベルトさんの言うように、悲しみもきっと愛なのでしょうね。
しなやかな魚のようにするりと身をくねらせ、指の間から逃げていったのは鱒なのかも知れないですね。
きっと、掌の中の悲しみも、鍵盤に触れて、ピアノの愛となったのでしょう。
2009年01月28日 07:47
◇myさん

おはようございます。
シューベルト、リート抜きにはを語れませんね。
中学の音楽の授業で初めて「白鳥のうた」のセレナーデを聴いた時、のやるせなく甘いメロディの中に見え隠れする胸が震えるような憧れ、哀しみの感覚をよく覚えています。「冬の旅」は実家にあったヒッシュのLP版で出会いましたが、、この曲の悲しみや絶望がのちに聴いたシュライヤーやブエンガルディエンの明るいテノールで聴いた時、その明るさに照らし出されるように響いてきました。
バリトンとはまた違う「うた」がありました。
「魔王」については、以前のブログにも書いています。URLを張りつけましたので、ごらんくだされば嬉しいです。

インフルエンザがずいぶん流行っているようですね。
御自愛くださいませ。
2009年01月28日 08:01
◇alexさん

コメントありがとうございます♪
私もクリムトにこんな作品があるとは全く知らなかったのですが、ふとした偶然で発見し、この絵がたどった運命に胸を突かれました。
炎の中に消えていったこの絵の写真が、このように鮮明な形で残されているなんて不思議です。優しく暖かな輝きの中に照らし出されたシューベルトは、穏やかで
幸福そうに見えますね。
2009年01月28日 08:07
◇坂本さん
 コメントありがとうございます♪

>きっと、掌の中の悲しみも、鍵盤に触れて、ピアノの愛となったのでしょう

掌の中のかなしみ・・・
とても実感のこもった、優しい表現ですね。
もしかしたらシューベルトはその哀しみさえも愛しんでいたのかもしれないと思いました。
「鱒」は私も大好きな曲です。
ここには綺羅らかで透明な流れを泳ぐ鱒のイメージとともに明るくはつらつとしたシューベルトがいますね。
しなやかな弦の響きが颯爽と響いています。
kero
2009年01月28日 23:44
aostaさん、今晩は。
シューベルティアーデを開催いただいてありがとうございます。
しかも題字はG.クリムト。

最初は、aostaさんの記事を読んで感銘を受けながらも、絵とシューベルトの繋がりを上手く見出せないでいました。あなたの記事にもそんな記述がありますね。
でもこの記事を読んで突然ひらめきました。

それはマーラーです。
実はマーラーの交響曲とシューベルトの交響曲は、オーストリアの伝統的楽曲形式「レントラー」という項を挿入すれば以外とすんなり結びつきます。それに歌曲という決定的項目を挿入すれば、彼らの血縁関係を疑う余地はないでしょう。
マーラーの音楽とクリムトの視覚芸術の共通項は敢えて言うまでもありません。
ですのでマーラーという要素を引用するとクリムトとシューベルトは思いがけなく出会うのではないか。 と思いました。

ところで私にとってシューベルトは特別の存在です。
私のとっての最初の西洋音楽との出会いは”Lindenbaum" でしたから。
2009年01月29日 08:07
◇keroさん
 おはようございます♪

マーラーとクリムト!
これはなるほどすんなりと結びつきますね。
私は「レントラー」については何もs知りませんでした。音楽の形式によって三者が結びつく、とはなんて素敵なことでしょう。
クリムトの絵には不思議な音楽的リズムと調べがあって、見ていると夢のような空間へと誘われるときがあります。それは心地よく循環し繰り返されるリズムです。レントラーとはチロル地方の民俗舞踊とありましたが、サウンド・オブ・ミュージックでトラップ大佐とマリアが躍った曲、という記述にはたと手を打ちました。あの場面は、サウンド・オブ・ミュージックの中でも一番好きな場面です。まさに「うっとり、夢見心地」のシーンでした。

まだ沢山書きたいことがあるのですが、続きはまた後ほど改めて書かせていただきます。悪しからずお許しくださいね。
かげっち
2009年01月29日 13:14
aostaさん、こんにちは。まとめてたくさんアップなさいましたね!しばらく東京と広島と東京に行っていたのです(←書き間違いではなくこの順で出張したのです)。

クリムトらしからぬ絵ですが、愛すべき絵です。でもこんな服を着たご婦人たちが、シューベルティアーデの中に大勢いたのかしら?現実の光景を写生したわけではないからこそ、こういう絵になったのかもしれませんが。

シューベルトのリートについては、ドイツ語という言語の特質も重要でしょう。他の言語で歌われるリート、という概念はあり得ないでしょうから。ドイツ語の子音が発する感情、子音とアーティキュレーションやメロディラインとの緊密な関係・・・決して名高い詩人とは言えない人の作品も、シューベルトに生命の息を吹き込まれると不思議な魅力のあるリートになりますね。
かげっち
2009年01月29日 13:15
そうそう、モーツァルトのクラリネット五重奏がお手元にあるなら、3楽章の第2トリオを聴いてみてください(クラリネットが分散和音でメロディを奏するところ)、レントラー風ですよ。

話を戻せば、シューベルトにとっての愛や悲しさは、そのように長く形をとどめておくことのない一瞬の音楽の中に描かれるからこそ、美しいのでしょう。それを聴く度に私は「ああ・・これがもっと長く続いてくれたらいいのに!」と心の中で叫ぶのです。でも、その感情を反芻し、分析し、再構築していったら、音楽はベートーヴェンのようになってしまうかもしれません。
かげっち
2009年01月29日 13:18
追伸(>keroさん)

シューベルトとマーラーの間にレントラーを挿入する発想はありませんでした、感銘を受けました。貴族のメヌエットではなく、激しいスケルツォでもなく、庶民的なレントラーを選んだ人たちでしたね。

二人の共通項をもう一つあげるとすれば、その楽想の魅力が持続する時間が短いということでしょう。短編の連作であればよいのですが、交響曲のように長い作品を書くときには構成力の弱さにも通じます。シューベルトはそれでも伝統的な交響曲の形式を維持しようとしたので、時に冗長な印象を受け、あるいはロ短調交響曲のように「未完成」のまま工事は終了します。マーラーは交響曲と題しながらもカンタータのような自由な構成で書いた、というところに独創性があったと思います。(わたし自身は、言いたいことを全部言い尽くしてしまおうというようなマーラーや後期ロマン派の音楽に、共感しきれませんけれども。言い尽くさず、はかなく消える音楽の余韻に、浸っていたいのです。)
2009年01月29日 21:29
◇keroさん

お待たせいたしました。続きです。
といっても大した内容ではありませんのでガッカリなさったらごめんなさい。
「サウンド・オブ・ミュージック」の中の舞踏会のシーンでした。トラップ家の子供たちとマリアがなんとなく華やかな広間に居場所がなくてテラスに出てきたところで、どことなく古風で優雅な音楽が聞こえてきます。子供たちから、「これ何の曲?」と聞かれたマリアが「古いオーストリアの曲よ。」と答えるあの曲なのですね。そのあとマリアはトラップ家の少年にその民俗舞踊を教えながら一緒に踊っているところに大佐が現れて、そこからマリアと大佐が二人で踊るのですが、途中でふと、ふたりの動きがとまり、じっと見つめあうシーン!!今思い出しても胸がドキドキします。私が今までに見た見た映画の中で、最高に美しいラブシーンのひとつです。クリストファー・プラマー、素敵でした。
ごめんなさい、シューベルトの話がすっかり脱線してしまいましたね。
2009年01月29日 21:33
◇keroさん
 まだ続きです(笑)。

さて、本題に戻らなければ
”Lindenbaum" 、「菩提樹」でしたね。
私がこの曲を覚えたのは母がよく歌っていたからです。
残念ながら日本語でしたが、その日本語の歌詞もとても素敵でした。
静かに夢が目を覚ますように始まるメロディー、ここにもシューベルト的ともいえる、過ぎ去りし日への憧憬があるように思います。
keroさんが初めて出会ったのがこの曲、というのは私には何か暗示的に思えます。
どちらかと言えば地味な印象を受ける場合が多いリート、それも、痛みと憧れで聴くたびに心が震えるシューベルトのリート。私の勝手な思い込みですが、ヤナーチェクやシベリウスに魅かれる、とおっしゃるkeroさんの繊細な感受性につながるものがあるように感じました。
2009年01月29日 21:57
◇かげっちさん

コメントありがとうございました。
それにしても、東京→広島→東京 ですか?お仕事とは言え、大変でしたね。
お疲れにならなかったかと心配です。

>クリムトらしからぬ絵ですが、愛すべき絵です。

本当に!!
「愛すべき絵」とはまさに的を得た言い方ですね。実際にシューベルトがこのような状況でピアノを弾いていたのかどうかはともかく、想像で描かれた分なおさらのこと真実に迫る、ということもいかにもありそうな気がいたします。

>ドイツ語という言語の特質・・・

昔どこかで聞いた話に、「英語はビジネスの言葉、フランス語は愛をささやく言葉、ドイツ語は馬の言葉(!!)」というのがありました。
2009年01月29日 21:59
◇かげっちさん

続きです。

普通に聴けば確かに子音が強く巻き舌でまくしたてるようなドイツ語はあまり「音楽的」とは思えませんね。それなのに、それなのに!!かげっちさんの言われるように、ひとたびシューベルトの魔法がかけられたドイツ語の何と美しいこと!
そしてまたリートではありませんが、シュッツやバッハに聴くドイツ語の研ぎ澄まされた精神的な響きもまたドイツ語なればこそですね。
もちろん言葉そのものだけではなくアーティキュレーションも重要なのでしょうが、精神の奥深いところまで降りてゆく音楽とドイツ語との不思議なまでの整合性を思います。そしてもうひとつ不思議なことは同じドイツ語でも、例えばシューベルトとシューマンではかなり違う印象になりますね。
同じ言葉に対しても、人それぞれに違う音楽的感受性がある、ということなのでしょうか。考えてみれば当たり前のことなのでしょうが・・・
2009年01月29日 22:11
◇かげっちさん

モーツァルトのクラリネット五重奏、持っているはずです。
確かグラモフォンのCDだったような気がするのですが、誰の演奏だったかしら?
探して聴いてみます!!

>音楽はベートーヴェンのようになってしまうかもしれません。

う~む、なるほど・・・私にもそのように思えてきました。
シューベルトの素晴らしさは、論理的なアナリーゼとは対極にある音楽だからかもしれませんね。シューベルトの音楽に聴く一瞬の哀切な感情や通り過ぎていく慈しみにみちた気配は、それが限りなく私たちの何気ない感覚に近いものなのだからなのかも知れません。そしてそれは暖かな「生身」の感覚であるかもしれません。
シューベルトが形としてのソナタをあまり好まず、いわゆる即興曲にその魅力を発揮した、ということにもこうしたことが関係していたのかもしれないと、勝手に考えてしまったaostaです(笑)。
kero
2009年01月29日 22:27
まずは、かげっちさん、なんども私にお声をかけてくださったのにご挨拶がおくれてしまいました。礼を失しまして申し訳ありません。
あらためまして今後ともよろしくお願いいたします。
かげっちさんの音楽への造形と愛情の深さは短いコメントでさえ充分に伝わってまいります。
今後ともいろいろとご教授いただければ幸いです。

aostaさん、ブログをお借りしてしまいまして申し訳ありませんでした。

私、繊細な感受性なんか全然なくて、ただたんにスノッブなだけです。

aostaさんは、音楽だけでなく美術への愛情も深いですね。
クリムトのシューベルトのこの絵も何度も本などで見ているのに、その出自については全く知りませんでした。
あなたの文章は私の知ったかぶりとは次元のちがうものですね。
私ね、年末のラ・トゥールの一連の記事なんどもなんども読み返してました。
そしてリルケの「ドゥイノの悲歌」の最終連を思い浮かべていたのでした。(おっとまた知ったかぶりがでてしまいました。)

かげっち
2009年01月30日 11:36
>aostaさん
私の感性ではドイツ語も音楽的と感じるのですが・・・学生時代はシューベルトやバッハを歌いたいだけの理由でドイツ語を選択したものの、ものにならなかった人間が偉そうに書ける立場ではないのですが。愛を囁くにはフランス語かもしれないけれど、愛を歌うならイタリア語でしょうし、母音の豊かなイタリア語だからベルカント唱法も発展したのでしょう。日本語には日本語の美しさがあり、ふさわしい歌い方があると思います。(日本語のラップで成功しているのは吉幾三だけだと思います)

>keroさん
過分の賛辞に恐縮するばかりです。こちらこそよろしくお願いします。
ちなみにシベリウスは私にとって「血」のような音楽ですが(聴くと血が騒ぐという意味)彼の旋律について「弱起が少なく最初の音符が長いことが多いという特徴はフィンランド語の特性と一致する」と書かれているのを読んだことがあります。少しだけフィンランドに行ったときに注意して現地語を聞いてみましたが、わかるような気がしました。
2009年02月01日 22:06
◇keroさん
お返事の順序が前後してしまい申し訳ありませんでした。

>aostaさん、ブログをお借りしてしまいまして申し訳ありませんでした。

とんでもありません。
このブログを通じてまた新たな出会いが生まれるとしたらなんて素敵でしょう。
keroさんもかげっちさんも御遠慮なくやり取りしてくださいな。
私も楽しみにしています。

>スノッブなだけ・・・

それを言うなら私も同じく、だと思います。
でも沈黙していたのでは、共感することもできません。
ということで、このブログも知ったかぶりaostaの自己満足です。

でもね。
スノッブでも知ったかぶりでも、リルケのお話しができて幸せです。
つたないラ・トゥールの記事を、繰り返しお読みいただいたとのこと、とても嬉しいです。


2009年02月02日 08:23
◇かげっちさん

短絡的なお返事をさしあげましたこと、お詫びいたします。
訂正させていただけますならば、私も決してドイツ語が音楽的でないとは思いません。シューベルトだけでなく、バッハにしてもモーツァルトにしても、またブラームスにしても、ドイツ語の美しさ素晴らしさに震える音楽はたくさんありますね。ヘンデルやパーセルの英語にしても同様です。
ドイツ語だから、また英語だからこそ表現できる音楽、また感情というものが確かにあると思います。
言葉と、音楽は表裏一体で結びついているということを心から感じる瞬間です。
歌うのは確かにイタリア語でしょうね(笑)
フランス語の場合は甘く囁くことはできても、朗々と歌い上げることは難しいと思います。

そして日本語。
うたうにしても読むにしても私には一番美しい言葉です。
言葉は文化であり、その言葉の中で育てられる感性も、言葉が違えば、また異なる豊饒の世界が広がるように思います。
Zu・Simolin
2011年03月06日 21:19
こんばんは。
aostaさんの、どのブログ記事にコメントをお書きしようか迷ったのですが、とりあえずは、やはりシューベルトに関わるものに、ということで……。

クリムト描くところのシューベルトたち。シューベルトの生前を知る画家が描いたのではと思わせる絵で、私も秘かに(別に秘かである必要はないのですが)気にいっている作品です。
確か描かれている女性は実際のシューベルトゆかりの女性だと、どこかで読んだ記憶もありますが、フレーリヒ姉妹だったかどうかは失念してしましました。失念したことをわざわざ語る必要などないのではありますが、まさにシューベルトが喜びをもって振り返るシーンがあるとすれば、このようなものだったのではないか、と思うのです。ショーバー詩による「音楽に寄せて」が背景にあるとはどこかの研究者の説らしいのですが、私は勝手にミニョンの歌か何かだと決めてかかっています。おかしいでしょ?

さて、うわ言のようなコメントになってしまいました。今度はまたいづれか別の御記事にコメントをお送りします。迷惑でないことを願いつつ。
2011年03月09日 06:29
◇Zu・Simolinさん

おはようございます。
お返事をお待たせしてしまって済みませんでした。
煙るような朧な灯りの下でピアノを弾くこのクリムトのシューベルトには不思議な暖かさと安らぎがあるように思えます。まるでピアノの前後に立っている女性たちからこのあえかな光が差しているよに見えませんか?

>私は勝手にミニョンの歌か何かだと決めてかかっています。

失われた故郷への哀惜と憧れに満ちたこの曲、この詩であったとしても何の不思議もないかもしれませんね。「憧れ」「憧憬」の感情は、音楽のみならず、すべて美しいものの母とも言えるかもしれません。
散逸的でまとまりのないお返事になりましたが、お許しください
2019年08月14日 07:39
岡埜 葡萄さま、はじめまして。
私は愛知県豊田市で内科クリニックを開業し、診療するとともに、バリトン歌手としてこの15年間毎年シューベルティアーデコンサートを当院、横浜、八ヶ岳山麓で開いています!今年15回目は10/26土曜日、山梨県のペンション・フェルマータにて開きます。
チラシのコメントを考える中でシューベルトのこの言葉を検索したら、岡埜 葡萄さまのブログに出会いました。是非この文章の一部を引用させて頂きたくご連絡しました。お返事をお待ちいたします。よろしくお願いいたします。

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