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zoom RSS intermezzo 「朝香宮のグランドツァー」

<<   作成日時 : 2011/01/16 20:29   >>

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今回の東京都庭園美術館の建物公開に合わせて「朝香宮のグランドツァー」 と銘打った展示が行われていました。

美術館の前身は、昭和8年に完成した朝香宮邸です。
朝香宮家は1906年(明治39年),久邇宮朝彦親王の第八王子鳩彦(やすひこ)王を初代当主として創設されました。
1910年に明治天皇皇女允子(のぶこ)内親王と結婚した鳩彦王は、1922年、当時の英国貴族の子弟の習慣であった「グランド・ツァー」に倣って、欧州へと旅立ちました。
時に鳩彦王35歳。

パリ16区に居を構えた宮が不慮の事故に見舞われたのは翌年1923年のこと。
従兄である北白川宮成久王の運転する車が、パリから100キロあまり離れた小さな村で先行車の追い越しに失敗。
立木に激突して車は大破、成久王は即死、同乗していた鳩彦王も重症を負うという大きな自動車事故でした。
日本で事故の知らせを受けた充子妃は、鳩彦王の看病のためパリへと旅立ち、期せずして夫婦そろってのパリ暮らしが始まりました。




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それは日本での「皇族」という身分から自由になった伸びやかで平穏な日々っだったようです。
事故後の経過も順調であった鳩彦王の転地療養を兼ねてヨーロッパ各地を旅し、異国の歴史や文化に触れた事は
お二人にとって忘れ難い思い出となったことでしょう。
当時のヨーロッパに溢れていたのは、第一次大戦が終わった後の一種熱狂的とも言える高揚した気分でした。
19世紀末から20世紀初頭にかけて攻勢を極めたアールヌーヴォーに代わってアールデコと呼ばれる美術装飾の潮流が勢いを増し、パリにおいてアール・デコ博覧会が開かれたのは、折しも夫妻がパリ滞在中の1925年のことでした。
この博覧会の開催に尽力したのが、フランス美術家装飾協会の副会長であったアンリ・ラパンであり、会場で脚光を浴びていたガラス工芸家ルネ・ラリックだったのです。
これが朝香宮ご夫妻とアールデコとの出会いでした。
そして後に、朝香宮邸の内装を手掛けることとなったラパンとラリックとの出会いでもありました。

同年の10月、2年間に及んだヨーロッパでの生活に終わりを告げ、アメリカ経由で帰国した鳩彦王と充子妃は、
フランス滞在中に関東大震災によって被害を受けた高輪の御殿に代わる住まいとして、白金にあった1万坪の御料地に新御殿を建造しました。
パリにおいて、アールデコ様式に感銘を受けた充子妃のたっての希望により、この新御殿の内装に登用されたのが、
ラパンでありラリックだったのです。

1933年、世界にも例をみない、アールデコ建築として朝香宮邸が完成しました。
しかしそのわずか半年後、充子妃逝去。
新しい御殿の設計に当って、自室や姫宮の部屋の内装やデザインに情熱を傾けた充子妃、42歳の突然の死でした。

1941年、太平洋戦争勃発、そして45年終戦。
2年後の47年、朝香宮、皇籍離脱。
熱海に住まいを移し、1981年(昭和56年)94歳で逝去。

宮の皇籍離脱後、主人不在となった宮邸は、吉田内閣時代、当初は外相官邸として後に首相官邸として使用されました。その後民間企業に買い取られた時期もあったこの建物が、東京都庭園美術館として私たちに解放されたのは、建造から50年後、1983年のことでした。



今回の企画ではお二人がヨーロッパから日本の家族へ送った、たくさんの絵葉書や写真が展示されていました。
欧州に向かう旅の途中、立ち寄った先々から送られた鳩彦王の葉書からも、また鳩彦王とともに暮らしたパリから送られた充子妃の葉書からも、日本に残してきた幼い子供たちへの溢れる想いが伝わってきます。
書かれているのはすべてカナ文字。小さな子どもにも読めるようにと言う心遣いでしょう。
その一枚一枚を、心待ちにしていたであろう子供たちの想いもまた迫ってきます。
残された多くの写真に写っている自然体のお二人は、帰国して後、家族がたどることになる困難な道のりを知らないままセピア色に微笑んでいました。



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アールデコに先立つアール・ヌーヴォーが世紀末の不安を背景に、絡みつくような曲線の植物モチーフを多用したのに対し、アールデコが用いたのは、簡潔で幾何学的な表現でした。
第一次世界大戦という、人類初めての世界戦争を経験したヨーロッパは、大きな転換期を迎えようとしていました。
それは、ヨーロッパ全土を巻き込む全面戦争であったばかりでなく、ドイツが投入した戦車や飛行機による空爆など、
機械兵器の登場で、それまでの戦争の在り方を決定的に変えるものでもありました。
ある意味では、従来の文明や秩序を破壊したとも言えるかもしれません。
あたかも、大きな歴史の波によって喪われた秩序を回復しようと寄せ返した波のように、アール・デコ的な「秩序」が、有機的植物的曲線が放縦にまた官能的に、空間を埋め尽くしていた過剰なまでのアール・ヌーヴォーに取って代わったことは、こうした背景を考えるとむしろ自然であったとも考えられます。

しかしながら、大戦後のヨーロッパの束の間の平安は、敗戦国ドイツの絶望的経済危機とともにありました。
この危いバランスの上に花開いたアールデコの夢もまた、明日知れぬ不安を内包していたのではないでしょうか。
アールヌーヴォーの不安が、ウィーン分離派の世紀末的不安と官能的な表現を生み出し、さらには表現主義の揺籃となったように、アールデコの不安は表現主義から一歩進んでシュルレアリスムへの道を開いたと言えるかもしれません。
有名なアンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」が発せられたのはアールデコ博覧会に遡ること、わずか1年前、
1924年のことでした。
フロイトの影響を受け、無意識や集団の意識、または夢や偶然にも何らかの意味を見出そうとしたシュルレアリスムと、表向き機械文明を受け入れながらも精神の深い部分でそのことに疑問を投げかけていたアールデコとは合い通じるものがあったのではないでしょうか。

1939年ナチス・ドイツのポーランド侵攻によって幕を開けた第二次世界大戦によってヨーロッパは再び戦火に見舞われ、人々の「無意識の不安」は現実のものとなりました。
そしてその2年後、日本でも戦争の火ぶたが切って落とされたのです。



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小客室から従者控室(第一応接室)につながるドアのドアノブ。
真鍮製でしょうか、磨滅した感じに時間の流れを感じます。








◇旧朝香宮邸のアールデコ(1) http://folli-2.at.webry.info/201101/article_5.html
◇旧朝香宮邸のアールデコ(2) http://folli-2.at.webry.info/201101/article_6.html
◇旧朝香宮邸のアールデコ(3) http://folli-2.at.webry.info/201101/article_7.html
◇旧朝香宮邸のアールデコ(4) http://folli-2.at.webry.info/201101/article_9.html
◇旧朝香宮邸のアールデコ(5) http://folli-2.at.webry.info/201101/article_10.html










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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
鳩彦王、允子ご夫妻の成り行き、そして朝香宮邸建築に至った経緯、また思想的な背景までも丁寧に書いてくださいました事、感謝です。この邸への充子さまの思い入れがいまだ住まいしているに違いないと、それこそ気配を覚えながら、その方が手を掛けようとするさまを想像しながらドアノブも拝見しました。
 きょうも雑事に追われた一日でしたが、このように本日唯一の文化を訪れることができました。
 あっ、これはシュールだ、などと簡単に絵画などを理解したつもりになっているわけですが、この記事で、時間のあるときにもう少しは把握しておくべきと思わせられました。
bunbun
2011/01/17 20:41
知られざる宮家のお話、 intermezzoに相応しく興味深く読ませていただきました。どこに出しても恥ずかしくない内容になっています「 旧朝香宮邸のアールデコ」後半も楽しみにしています。aostaさん、すごいな〜。
harukaeto
2011/01/17 21:26
◇bunbunさん

ドノブについてのご感想、ありがとうございました。
ノブって一日に何回も大ぜいの人が触れる場所だからかもしれませんが、変色したり、磨滅したりしているドアノブを見る時、なぜか感慨を覚えてしまいます。
写真のドアノブには触れることができませんでしたが、なろうことならば、そっと握って、多くの人が感じたであろう冷たい金属の肌触りを感じてみたいと思いました。充子妃は腎臓を患っていらしたようです。宮邸建設にあたっては、フランス側との連絡や調整を積極的になさっただけでなく、画才に恵まれていた妃は、自らご自分の居間のラジエターカバーをデザインをされたようです。妃がこの館の完成とそこでの生活に、どれだけ多くの夢と希望を持っていらしたかを想うと、さぞかし心残りであられたことでしょう。皇族と言う立場上、公に使われる機会が多いにしても、そこは家族のための場所であるのですから。
新しい家は、新しい夢とイコールですね。
aosta
2011/01/18 06:22
◇harukaetoさん

実は庭園美術館の記事が続いて、ちょっとしんどくなったので、一休みしようと intermezzoを思いついたのですが、こちらの記事の方が大変でした(笑)
前半はたくさんの情報をわかりやすくまとめることに四苦八苦致しましたが、さらに大変だったのは、後半のアールデコと当時の社会情勢や美術界の潮流について。「判っているつもり」だけでは、なかなか書けませんでした(笑)。改めて何冊かの美術書を読み返したことで、私自身とてもよい勉強になったと思います。

>「 旧朝香宮邸のアールデコ」後半も楽しみにしています。

ありがとうございます♪
もうひと頑張りいたします。
aosta
2011/01/18 06:34

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